吉川『三国志』の考察 第246話「改元(かいげん)」

曹丕(そうひ)の側近たちから強く迫られ、ついに献帝(けんてい)は、国を譲る旨の詔書を書く。

そして形式的なやり取りを繰り返した末、延康(えんこう)元(220)年10月、繁陽(はんよう)において帝位に即いた曹丕は、国名を「大魏(たいぎ)」と号し、年号も「黄初(こうしょ)」と改めた。

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第246話の展開とポイント

(01)曹丕の巡遊

魏(ぎ)では建安(けんあん)25(220)年を延康元年と改めた。

この記述は引っかかる。実質的には曹丕の意向でも、いまだ延康は漢(かん)の年号なので……。なお、この改元には先の第243話(04)でも触れられていた。

また、夏の6月には魏王(ぎおう)曹丕の巡遊が実現。亡父曹操(そうそう)の郷里である沛(はい)の譙県(しょうけん)を訪れ、先祖の墳(はか)を祭らんと沙汰し、文武百官を伴い、精兵30万を従えた。

沿道の官民は道を掃き、儀仗(ぎじょう)の列にひれ伏す。わけて郷里の譙県では、道端に出て酒を献じ、餅を供えて祝し合う。

だが、曹丕の滞留はひどく短く、墓祭を済ませたとたんに帰ってしまったので、郷人たちは何か張り合い抜けがした。

これは、大将軍(だいしょうぐん)の夏侯惇(かこうじゅん)が危篤だという報を受け取ったためである。しかし曹丕が帰国したとき、すでに彼は亡くなっていた。

(02)鄴都(ぎょうと)

曹丕は東門に孝を掛けて、この父以来の功臣を礼厚く葬った。

孝には喪に服しているという意味もあるとのことだが、ここで使われていた「東門に孝を掛けて」という用法はよくわからなかった。

曹丕は、正月から葬祭ばかりしていると言い、臣下も少し気に病んでいたが、8月以降は不思議な吉事が続く。石邑県(せきゆうけん)に鳳凰(ほうおう)が舞い降りたとか、臨淄(りんし)に麒麟(きりん)が現れたとかいうものだった。

すると秋の末ごろ、鄴郡の一地方に黄龍が現れたと、誰からともなく言い伝えられ、ある者は見たと言い、ある者は見ないと言い、やかましい取り沙汰だった。

おかしいことには、そのうわさと同時に、魏の譜代の面々が日々閣内に集まり、勝手な理屈をつけ、帝位を奪う大陰謀を公然と議していたのである。

侍中(じちゅう)の劉廙(りゅうい)・辛毘(しんび。辛毗)・劉曄(りゅうよう)、尚書令(しょうしょれい)の桓楷(かんかい。桓階)ほか、陳矯(ちんきょう)や陳群(ちんぐん。陳羣)などを主として、40数名の文武官は連署の決議文を携え、太尉(たいい)の賈詡(かく)、相国(しょうこく)の華歆(かきん)、御史大夫(ぎょしたいふ)の王朗(おうろう)を説き回った。

ここでは陳矯と陳群の官職が書かれていなかったが、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝伝(けんていでん)』によると、ふたりとも尚書だったようだ。

「いや。諸員の思うところは、かねて我らも心していたものである。先君武王(ぶおう。曹操)のご遺言もあること。おそらく魏王におかれてもご異存はあるまい」

三重臣の言葉も、符節を合わせたように一致していた。麒麟の出現も鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。

(03)許都(きょと) 内裏(天子〈てんし〉の宮殿)

王朗と華歆、中郎将(ちゅうろうしょう)の李伏(りふく)、太史丞(たいしじょう)の許芝(きょし)などという魏臣は、ついに許都の内殿へ伺佐して伏奏した。

「恐れ多いことですが、もう漢朝(かんちょう)の運気は尽きております。御位(みくらい)を魏王に禅(ゆず)りたもうて、天命にお従いあらんことを――」

これは伏奏というより、冠を連ねて献帝の闕下(けっか。ここでは御前の意)に迫ったと言うべきである。このとき献帝は39歳。彼は9歳で董卓(とうたく)に擁立され、万乗の御位(帝位)に即いた。

献帝(劉協〈りゅうきょう〉)は光和(こうわ)4(181)年生まれ。なので、この年(延康元〈220〉年)には39歳ではなく40歳だった。ただ、(中平〈ちゅうへい〉6〈189〉年に)9歳で帝位に即いたという記述は史実と合っている。

以来、戦火乱箭(らんせん。箭〈矢〉が乱れ飛ぶ様子)の中に幾たびか遷都し、荊棘(けいきょく。イバラ)の道に飢えすら味わった。

やがて許昌(きょしょう)に都して、ようやく後漢(ごかん)の朝廟(ちょうびょう)に無事の日は来ても、曹操の専横はやまず、魏臣の無礼に朝臣の逼塞(ひっそく)。朝はあってなきがごときものだった。

もとより献帝も、そのようなことを即座に承諾するわけがない。ひとこと言ったまま内殿へ立ってしまう。

「朕の不徳は、ただ自らを恨むほかないが、儂(み。われ)不才なりとはいえ、安(いずく)んぞ祖宗の大業を捨つるに忍びん。ただ公計に議せよ」

それでも華歆や李伏らは、その後ものべつ参内して麒麟や鳳凰の奇瑞(きずい)を説いたり、暦数(自然に回ってくる運命)から迫ってみたりする。

あるときは、いにしえの三皇や五帝の例を持ち出し、言語道断な得手勝手と、半ば脅迫に似た言をすらもてあそんだ。

三皇は古代中国の伝説上の三天子。伏羲(ふっき)・神農(しんのう)・女媧(じょか)。また祝融(しゅくゆう)とも燧人(すいじん)ともいい、説が多い。

五帝は古代中国の伝説中の5人の皇帝。黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)。ほか諸説がある。

しかし、献帝は頑として明確に喝破した。

「祥瑞(しょうずい)や天象のことなどは、みな取るに足らぬ浮説である。虚説である」

あくまで彼らの佞弁(ねいべん)を退け、依然として屈服する色を示さない。だがこの間に、魏王の威力とその黄金力や栄誉の誘惑は、朝廟の内官を腐食するに努めていた。

そうでなくとも、もう心から漢朝を思う忠臣の多くは亡き数に入り、あるいは老いさらばい、または野に退けられ、骨のある人物というものはまったくいなくなっている。

滔々(とうとう)として魏の権勢に媚(こ)び、震い恐れ、朝臣でありながら、魏の鼻息のみをうかがっているような者だけが残っていた。

そのためなのか、近ごろは献帝が朝へ出御(しゅつぎょ。天子がお出ましになること)しても、朝臣の文武官も姿を見せない者が日増しに多くなった。あるいは病気と称し、あるいは先祖の祭日と称する。届けもなしに席を欠く者も実におびただしい。

ついには献帝ひとりになる。そこへ後ろから曹皇后(そうこうごう)がそっと歩み寄って言った。

「陛下。兄の曹丕から私に、すぐ参れという使いが見えました。玉体をお損ねあそばさぬように」

曹操の娘が皇后に立てられた経緯については、先の第206話(02)を参照。

そう意味ありげに言い残すや、楚々(そそ)と立ち去りかける。献帝は再び帰らないことを察し、衣の袖を押さえて言った。

「御身(あなた)までが朕を捨て、曹家へ帰るのか?」

曹皇后は、そのまま前殿の車寄せまで足を止めずに歩いたが、献帝は追いかける。するとそこにたたずんでいた華歆が、今は拝跪(はいき)の礼も執らずに傲然と言った。

「陛下。なぜ臣の諫めをお用いになり、禍いをお逃れあそばさぬか? 御后(皇后)のことのみか、こうしておられれば、刻々、禍いは御身にかかってまいりますぞ!」

献帝は耐えきれずに震怒(天子が怒ること)し、華歆らに加え、魏そのものも糾弾する。

華歆もまた声を荒らげ、御衣の袂(たもと)をつかみ、ここでご決意のほどを臣らへお漏らしくださいと迫った。

献帝はわななく唇をかみ締め、ただ無言を守る。このとき華歆が王朗に目くばせしたので、献帝は御衣の袖を払い、急に奥の便殿へ駆け込む。たちまち宮廷のそこかしこに、常ならぬ足音が乱れ始めた。

曹休(そうきゅう)と曹洪(そうこう)は剣を佩(は)いたまま殿階に躍り上がり、大声で符宝郎(ふほうろう)を捜す。符宝郎とは、帝室の玉璽(ぎょくじ)や宝器を守護する役名である。

人品のよい老朝臣が祖弼(そひつ)と名乗り、恐れる色もなくふたりに近づく。

曹洪は剣を抜き、玉璽を渡すよう迫ったが、祖弼は曹休ともども下司(げす)呼ばわりして応じない。

曹洪と曹休は憤怒し、やにわに祖弼を庭上に引きずり出すと、首を斬って泉水へ放り捨てた。

すでに禁門(宮門)を犯してなだれ込んだ魏兵は、鎧(よろい)を着て矛を持ち、南殿北廂(ほくしょう)の苑(にわ)に満ちている。

献帝は急いで朝臣を集め、眦(まなじり)に血涙をにじませ、悲壮な玉音を震わせ、魏王に世を禅る旨を宣言した。

ほどなく、ずかずかと立ち入ってきた賈詡が、一刻も早く詔書を下すよう促す。献帝は涙に暮れるのみだったが、賈詡は桓楷や陳群らを呼び、ほとんど強制的に禅国の詔書を作らせた。

そして、すぐに華歆を使いとして玉璽を捧げしめ、「勅使、魏王宮に赴(ゆ)く――」と唱えて禁門から出す。

もちろん朝廷の百官を随員とし、あくまで献帝の御意を奉じて儀仗美々しく出向いたので、沿道の一般庶民には、宮中での魏の悪逆な行為は容易に漏れなかった。

(04)鄴都 魏王宮

詔書を拝した曹丕が、ただちに禅りをお受けせん、と答えそうな様子に、あわてて司馬懿(しばい)がたしなめた。

「いけません。そう軽々しくお受けしては」

曹丕はすぐに悟る。

「儂は到底その生まれにあらず。万乗を統(つ)ぐはただ万乗の君あるのみ」

こう肚(はら)とはまったく反対な言葉を勅使に伝え、恭しくも表を書かせ、いったん玉璽を返し奉った。

(05)許都 内裏

勅使から返事を聞くと、献帝はひどく迷う。

「曹丕は受けぬという。どうしたものであろう?」

侍従らを顧みて言い、それによっていささか眉を開いたようにすら見えた。しかし華歆はそばを離れず、こう奏上する。

「むかし堯の御世に、娥皇(がこう)と女英(にょえい)というふたりのお娘がありました。堯が舜に世を禅ろうというとき、舜は拒んで受けません。そこで堯はふたりのお娘を舜に娶(めあわ)せ、後に帝位を禅られたという例がございます。陛下。ご賢察を垂れたまえ」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)に、堯が舜の徳を試すため二女を嫁がせたとある。曹魏は自身の禅譲を堯舜革命になぞらえることで正統性を示した」という。

またしても献帝は、無念の涙をどうすることもできないという面持ちを示した。是非なく、翌日に再び高廟使(こうびょうし)の張音(ちょういん)を勅使とし、最愛の皇女ふたりを車に乗せ、玉璽を捧げて魏王宮へ至らしめる。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「高廟使は『三国志演義』が誤って用いた官名。張音がこの職に就いたことになっているが、後漢・三国時代にはこの官名はなかった」という。

また「太常卿(たいじょうけい)の属官に皇帝の祖廟(そびょう)を管理する高廟令(こうびょうれい)という職があるが、(正史『三国志』の)『魏書(ぎしょ)・文帝紀(ぶんていぎ)』および『後漢書(ごかんじょ)・献帝紀(けんていぎ)』によれば、張音が任ぜられたのは太常卿・兼御史大夫(兼は代理の意)であり、高廟令ではない」ともいう。

なお『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第80回)では、献帝の皇女ふたりが曹丕に差し出された件は見えなかった。

(06)鄴都 魏王宮

曹丕はたいへん喜ぶ。けれど今度は賈詡がそばにいて、「いけません。まだいけません」というような顔をして首を振った。

むなしく勅使を帰した後、曹丕は少し膨れ顔をしてなじる。

だが賈詡は、もうお急ぎになる必要はないと言う。自分が慮っているのは、「曹家の子、ついに帝位を奪えり」と、世の知者たちが謗(そし)りだすことであると。

曹丕は、では三度勅使を待つのかと聞くが、賈詡はこう答えた。

「いやいや。今度はそっと、華歆へ内意を通じておきましょう。すなわち、華歆をしてひとつの高台(うてな)を造営させ、これを受禅台と名付けます」

「そのうえで吉日を選び、天子が御自ら玉璽を捧げ、これを魏王に禅るという、大典を挙行することをお勧め申すべきです」

(07)繁陽

受禅台は繁陽の地を卜(ぼく)し、その年(延康元〈220〉年)の10月に竣工(しゅんこう)をみた。

三重の高台と式典の四門はまばゆきばかりに装飾され、朝廷や魏王府の官員数千人に加え、御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)8千人と虎賁軍(こほんぐん)30余万人。旌旗(せいき)や旆旛(はいばん。大将が立てる旗と垂れ下がる幟〈のぼり〉)を林立して台下に立ち並ぶ。

このほか匈奴(きょうど)の黒童や化外(天子の政治や教化の行き届かないところ)の人々も、およそ位階があり魏王府に仕える者はこぞって、祭典を仰ぐ光栄に浴した。

10月庚午(かのえうま)の日(28日)、寅(とら)の刻(午前4時ごろ)、この日は心なしか薄雲がみなぎり、日輪は寒々とただ赤かった。

献帝は台に立ち、帝位を魏王に禅るという冊文を読み上げる。玉音はかすれがちに、時おり震えていた。

曹丕は八盤の大礼という儀式の後、台に登って玉璽を受け、献帝は大小の旧朝臣を従え、涙を隠しながら階下に降る。天地のもろ声を欺く奏楽が、同時に耳を聾(ろう)するばかりに沸き上がり、万歳の声は雲を震わせた。

その夕方、大きな雹(ひょう)が石のごとく降る。曹丕すなわち魏帝は、「以後、国名を『大魏』と号す」と宣し、年号も「黄初」と改めた。亡き父の曹操には改めて「太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい)」と諡(おくりな)した。

ここは原文「また年号も、黄初元年とあらためた。」だが、「年号も『黄初』と改めた」としておく。

一方の献帝は山陽公(さんようこう)に封ぜられ、わずかな旧臣を伴うと一頭の驢馬(ロバ)に乗り、悄然と冬空の田舎へ落ちていく。

井波『三国志演義(5)』(第80回)では、献帝(山陽公)が馬に乗って出発していた。

管理人「かぶらがわ」より

前後400年に及んだ漢帝国が滅亡しました。なお献帝の曹皇后というのは、曹操の娘の曹節(そうせつ)のことです。

吉川『三国志』では、彼女があっさり献帝を見捨てて実家に帰ったという設定を採っていましたが――。『三国志演義』(第80回)では版本によって、曹節が曹丕の所業をなじる(献帝寄り)という設定も見られます。

正史『三国志』には関連する記述はないものの、『後漢書』(曹皇后紀〈そうこうごうぎ〉)には、曹皇后が使者を呼び入れて何度もなじり、璽を軒下に投げ捨てて泣き、「天はあなたに味方することはない」と言った、との記事がありました。

つまり『三国志演義』(第80回)や『三国志 Three Kingdoms』(第75話)は『後漢書』寄りの描かれ方になっているということです。この件については「こささん」からご助言を頂きました。どうもありがとうございます。(2020/7/26追記)

山陽公となった劉協は、魏の青龍(せいりょう)2(234)年の3月に薨去(こうきょ)しており、そのとき54歳でした。

実のところ、劉協は生没年とも諸葛亮(しょかつりょう)と同じ(諸葛亮はその年の8月に陣中で死去)なのです。何か運命的なものを感じますね。

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