吉川版『三国志』の考察 第245話 「私情を斬る(しじょうをきる)」

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上庸(じょうよう)を守っていた孟達(もうたつ)が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に降ると、同じ城にいた劉封(りゅうほう)のもとに劉備(りゅうび)から孟達討伐の厳命が届く。

ところが劉封は襄陽(じょうよう)で魏軍に大敗し、やむなく成都(せいと)へ逃げ帰った。劉備は養子でもある劉封の扱いを決めかねたものの、結局は処刑を断行する。

第245話の展開とポイント

(01)成都(せいと)

漢中王(かんちゅうおう)の劉備(りゅうび)はこの春、建安(けんあん)25(220)年をもってちょうど60歳になる。魏(ぎ)の曹操(そうそう)より6つ年下だった。

曹操の死は早くも成都に聞こえ、多年の好敵手を失った劉備の胸中には、一抹落莫(らくばく)の感なきを得なかったであろう。

敵ながら惜しむべき巨人と、歴戦の過去を顧みると同時に、「われもまた人生六十齢」と、やがては自分の上にも必然きたるべきものを期せずにはいられなかったに違いない。

折ふし魏では曹丕(そうひ)が王位に即き、朝廷をないがしろにするふうはますます甚だしいと聞く。劉備はある日、成都の一宮に文武の臣を集めて魏の不道を大いに鳴らし、先に亡くした関羽(かんう)を惜しみ、衆議に諮る。

「まず呉(ご)に向かい関羽の仇(あだ)をそそぎ、転じて驕(おご)れる魏を一撃に討たんと思うが、汝(なんじ)らの意見はいかに?」

人々の目は輝いた。今や蜀(しょく)の国力も十分に回復し、兵馬は有事の日に備え鍛錬は怠りない。それは、誰も異存なき意思を示している眸(ひとみ)だった。

このとき廖化(りょうか)が進み出て言う。

「関羽を敵に討たせたのは、味方の劉封(りゅうほう)と孟達(もうたつ)のふたりでした。呉に仇を報う前に彼らのご処分を正さなければ、復讐戦(ふくしゅうせん)の意義が薄れましょう」

劉封と孟達が関羽に援軍を送らなかったことについては、先の第236話(05)を参照。

劉備は大きくうなずき、その儀はわれも一日も忘れずと言った。そして、ただちに劉封と孟達へ召し状を発し処断せんと言うと、諸葛亮(しょかつりょう)が諫める。

「いや、火急に召し状を発せられては必ず異変を生じましょう。まず両名を一郡の『太守(たいしゅ)』に転任させた後、ゆるゆるとお計りあそばすがよいかと思います」

ところが、その日の群臣の中に「彭ヨウ(ほうよう。+永)」という者がいた。彼と孟達とは日ごろから非常に親しかった。

彭ヨウはわが家へ帰るとすぐに書簡をしたため、「きみの命は危ない。転任のお沙汰が届いても油断するな。関羽の問題が再燃したのだ」と、孟達へ密報を出す。

しかし、この密書を持った使いの男は、南城門の外で馬超(ばちょう)の部下である夜警兵に捕まった。馬超は密書の内容を見て一驚したが、念のため彭ヨウの家を訪れ、その様子を見届けることにする。

(02)成都 彭ヨウ邸

彭ヨウは何も感づかず、酒を出して馬超を引き留め、深更(しんこう。深夜)まで痛飲。そのうち馬超の口に釣り込まれ、慨然と胸底の気を吐いてしまう。

「もし上庸(じょうよう)の孟達が旗揚げしたら、足下(きみ)も成都から内応したまえ。不肖、彭ヨウにも十分勝算はある」

「足下のごとき大丈夫(だいじょうふ。意志が堅固で立派な人物)が、いつまでも碌々(ろくろく)と蜀門の番犬に甘んじておるわけでもあるまいが……」

(03)成都

翌日、馬超は劉備にまみえ、彭ヨウの密書とともに前夜のことをことごとく告げた。ただちに劉備は彭ヨウの逮捕を命じたうえ獄へ下し、なお余類を拷問にかけて調べる。

彭ヨウは大いに後悔し、獄中から諸葛亮へ悔悟の書を送り、どうか助けてほしいと憐憫(れんびん)に訴えた。劉備もその陳情を見て半ば心を動かされた様子だったが、諸葛亮は冷然と顔を振り言う。

「かかる愚痴は狂人の言と見ておかねばなりません。叛骨(はんこつ)ある者は一時恩を感じても、後にまた必ず叛骨を現しますから」

こうしてかえって急に断を下し、その夜、彭ヨウに死を与えた。

(04)上庸

彭ヨウが誅されたことにより、遠隔の地にある孟達も、さてはと身に危険を感じ始める。

もともと彼には離反の心があったものとみえ、部下の申耽(しんたん)と申儀(しんぎ)から魏に奔るよう勧められると、同じ城にいる劉封にも告げず、わずか5、60騎を連れ夜中に脱走してしまった。

劉封は夜が明けてから孟達の脱走を聞いたが、なお信じきれない顔。やがて国境の柵門(さくもん)から早打ちが飛んできて、脱走が真実だとわかる。

あわてて劉封は兵馬を糾合し、自ら追手となって急追したが、時すでに遅しで空しく帰ってきた。まだ何も悟らない劉封のもとに成都から急使が着き、漢中王の命を伝える。

「孟達の反心は歴然。なぜ拱手(きょうしゅ)して見ているか。ただちに上庸と綿竹(めんちく)の兵を挙げて不義を鳴らし、孟達の首を取るべし」

実は、この命は諸葛亮の遠謀だった。劉備としては成都から軍勢を派遣し始末するつもりだったが、諸葛亮は上策ではないとした。

孟達の追討を劉封に命ずれば、戦(いくさ)に勝っても負けてもいったんは成都へ帰ってくるしかない。その時に処断することが、対外策としても最善の策であると説いたのだった。

(05)鄴都(ぎょうと) 魏王宮

一方、魏に投降した孟達は、曹丕の前に引かれて一応は尋問を受けた。曹丕は内心、この有力な大将の投降を歓迎していたが、なお半信半疑を抱き理由を尋ねる。

これに孟達が答えた。

「関羽の軍が全滅に遭ったとき私が麦城(ばくじょう)へ救いに行かなかった点を、旧主の劉備はあくまで責めてやみません。関羽を見殺しにしたるは孟達なりと、害意を抱いておらるる由を便りに知ったからです」

ちょうど襄陽(じょうよう)方面から急報が入る。劉封が5万余の兵をひきいて国境を侵し、諸所を焼き払いながら侵攻してくるという注進だった。

曹丕は孟達を試すには適当な一戦だと思い、とりあえず「散騎常侍(さんきじょうじ)・建武将軍(けんぶしょうぐん)」に任じ、襄陽の夏侯尚(かこうしょう)や徐晃(じょこう)に加勢するよう命ずる。

井波版『三国志演義』(第79回)では、さらに孟達は「新城太守(しんじょうのたいしゅ)」に任ぜられたうえ「平陽亭侯(へいようていこう)」に封ぜられてもいた。

(06)襄陽の郊外

孟達が襄陽に着いたとき、すでに劉封の軍勢は郊外80里(り)まで来ていた。そこで一通の書簡をしたため、軍使を仕立てて劉封の陣へ届けさせる。友情的な辞句を借り、魏への降伏を勧めるものだった。

劉封は書簡を読み終えるや引き裂いて捨て、軍使の首を刎(は)ねたうえ襄陽城へと迫る。だが戦いは、その日も次の日も敗北を招く。敵の陣頭にはいつも孟達が現れ、したたか劉封を痛めつけた。

加えて襄陽城には魏の勇将として聞こえの高い徐晃がいるし、夏侯尚もあるし、とうてい太刀打ちできない。惨敗を重ねた劉封軍は、敵の三将に包囲されせん滅的な打撃を受ける。ついに上庸へ壊走してきたが、そこもいつの間にか魏軍に占領されているというありさま。

とうとう劉封は100余騎の残兵を連れ、成都へ逃げ帰るほか道がなくなってしまう。諸葛亮の先見は当たっていた。

(07)成都

劉封が敗れて帰ってきたと聞くと、劉備は階下に止めおくよう侍臣に言いつける。劉備が表の閣へ臨むと、階下にひれ伏している劉封はようやく面を上げ、関羽の援軍に行かなかったことを弁解しだす。

劉備は眉(まゆ)を怒らし、いよいよ激しく叱ったが、多年育てた子と思えば、私情はまた別とみえる。目に涙をたたえ、面を横にしたきり、再び階下の劉封を正視しなかった。

「まったく私の不敏です。いえ、大落ち度でした。何とぞこのたびだけはお許しください。この通りです」

こう言って劉封は涙を流し、何十遍も地に額をすりつけていた。しかし、劉備は横を向いたまま。自己を木石のごとく、私情を仇のごとく、ジッと抑えている。

そのうち劉封はワッと赤子のようにむせび泣いた。その声にはさすがの劉備も胸を搔(か)きむしられる。ついに怒れる眉は慈父の面に変わろうとしかけた……。

すると、それまで口をつぐんで様子を見ていた諸葛亮は目をもって、崩れかかる彼の心をジッと支えた。意志の不足へ意志を補ったのである。

劉備は急に立ち、左右の臣へ言い捨てた。

「武士ども。この豎子(じゅし。年が若く、まだ一人前になっていない男)を押し出し、早く首を斬れ」

こう言うやいな、ほとんど逃げ込むように面を沈め、奥の一閣へ隠れてしまう。

劉備がひとり閉じこもったまま、悵然(ちょうぜん。気の重いさま)と壁に対していると、ひとりの老侍郎(ろうじろう)が恐る恐る近づいてきて言った。

「劉封の君について、襄陽の戦場から落ちてきた部下たちに手前がいろいろ聞いてみますと、すでに劉封さまには上庸におられたときからいたく前非を悔い、孟達が魏へ奔った後は、なおさら慙愧(ざんき)に堪えぬご様子だったそうです」

「襄陽の陣でも孟達から来た勧降の書を引き破り、その軍使も即座に斬って戦を進められた由ですから、もってその後の心中はよくわかりまする。何とかご憐憫を垂れたまわんことを。われわれ臣下からも切にお願い申し奉りまする」

劉備としては助けたくてならなかったところ。誰かにそう言ってもらいたい折に、こういう言葉を聞いたのだった。

「おお。彼にも一片の良心はあったか。忠孝の何たるかは少しでもわきまえていたとみえる。不憫な奴。殺すまでもない」

転(まろ)ぶがごとく廊下へ出ると、急に助命を伝えよと老侍郎を走らせる。ところがその出会い頭に、数名の武士はすでに劉封の首を斬り持ってきた。

劉備はひと目見るや痴者のごとくつぶやき、腰もつかないばかりに嘆く。

「な、なに。もはや斬に処してしまったとか。われとしたことが軽々しくも怒りに任せ、ついにひとりの股肱(ここう)を死に至らしめてしまった。あぁ、悲しいかな……」

諸葛亮が来て、嘆きやまない彼を一室へ抱き入れた。そして言葉静かに励ますと、劉備もうなずく。ただ老齢60の彼には、このことも後の病の一因にはなった。

管理人「かぶらがわ」より

劉封についてはどうも評価が難しいと感じます。吉川版『三国志』では先の第126話(04)で、跡継ぎの阿斗(あと。劉禅〈りゅうぜん〉)が生まれた後、劉封が養子に迎えられたという話になっていました。

ですが『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝)によると、劉封が養子に迎えられたのは阿斗が生まれる前なのですよね。

阿斗の誕生後、劉封は非常に微妙な立場の中で必死に生きてきたと思います。劉備との出会いが皮肉な結末をもたらしたとも言えそうで、何だか気の毒な感じさえしました。

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