吉川『三国志』の考察 第236話「月落つ麦城(つきおつばくじょう)」

今や敗将の身となり、逃走を続ける関羽(かんう)。荊州(けいしゅう)の呂蒙(りょもう)に玉砕覚悟で挑もうと考えたが、配下の兵士に脱走者が相次いだことから断念する。

関羽は、4、500人まで減った手勢とともに麦城(ばくじょう)へ入ると、上庸(じょうよう)の劉封(りゅうほう)や孟達(もうたつ)に救援を要請すべく、この難役を買って出た廖化(りょうか)に決死の使いを命じた。

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第236話の展開とポイント

(01)敗走中の関羽

進もうとすれば、前には荊州の呉軍(ごぐん)がある。退こうとすれば、後には魏(ぎ)の大軍が満ちている。

配下の趙累(ちょうるい)が関羽に勧めた。

「大将軍(だいしょうぐん)。試みに、呂蒙へお手紙を送られてみたらいかがですか?」

「かつて呂蒙が陸口(りくこう)にいた時分は、よく彼のほうから密書を届け、時きたらば提携して、呉を討ち、魏を滅ぼさんと、刎頸(ふんけい)の交わりを求めてきたものです。あるいは今もその気持ちを深く抱いているやもしれません……」

そこで関羽は書簡をしたため、荊州へ使いを遣る。

ここでの趙累の発言がよくわからない。どう読んでも、呂蒙が関羽に持ちかけた話の内容が不自然に思える。呂蒙が呉を裏切る考えを(密書の文面とはいえ)伝えていたというのは、ほかでは見ない設定。

なお『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第76回)では、呂蒙が陸口にいたころ、よく手紙で関羽に言っていたこととは、「両家(孫権〈そんけん〉と関羽を指す)が手を組んで曹操(そうそう)めをやっつけましょう」という内容で、こちらのほうがしっくりくる。

(02)荊州(江陵〈こうりょう〉?)

関羽の使者が来ると聞くと、わざわざ呂蒙は城外まで出迎え、駒を並べて自ら案内に立った。荊州の民たちも来訪を聞き伝え、わが子や夫、親類縁者らの消息を知りたいと、使者の周りに群れ集まる。

「帰りに。帰りに――」と皆をなだめ、ようやく使者は城中へ入った。

呂蒙は関羽の書簡を見て言った。

「関将軍のお立場は察し入る。また旧交も忘れていません。しかし交わりは私のこと。今日のことは国家の命である。お体を大切に、ただよろしく申したとお伝えあれ」

そして使者には十分な馳走(ちそう)をし、土産には金帛(きんぱく)を贈り、懇ろに城門まで見送った。その帰る姿を見た荊州の民は、かねて書いておいた手紙や慰問品を持ち寄り託した。

なお民が口々に言う。

「わしらはみな呂蒙さまのご仁政のおかげで、以前に増して温かく着、病む者には薬を下され、難に遭った者は救っていただくなど、少しも心配のない暮らしをしております。そのことも伜(せがれ)や夫らに伝えてくだされ」

これを聞いた使者はつらかった。耳をふさいで逃げたい思いだった。

(03)敗走中の関羽

やがて使者は蕭条(しょうじょう)たる広野の中の野陣に帰り、ありのままを告げた。関羽は長嘆久しゅうして言う。

「あぁ、到底われは呂蒙の遠謀には及ばない。いま思うに、すべて彼の遠い慮りであった。荊州の民をもそれまで帰服せしめてしまうとは、恐るべき人物……」

後は口を閉じて何も言わない。ただ眼底の一涙が光ったのみである。

野営は長く留まれない。大雨が降るとたちまち付近は沼となり河となる。このうえは玉砕主義を取り、荊州へ突き進もう。呂蒙と一戦を交えるも快である。こう命令を出し、明日は野陣を払って発つと決めた。

ところが夜が明けると、いつの間にか兵の大半は逃げ落ちてしまい、いよいよ残り少ない兵力となってしまった。荊州へ使いに行った将は密かに悔いたが、もう間に合わない。残っている兵の顔にも慕郷や未練の影が濃く、まったく戦意は上がらなかった。

「去る者は去れ。ひとりになっても我は荊州に入る」

関羽は断固として進む。けれど途中に、呉の蔣欽(しょうきん)と周泰(しゅうたい)が険路を扼(やく)して待っていた。

河辺に戦い、野にわめき合い、闇夜の山にまた吠え合う。さらに呉の徐盛(じょせい)が雷鼓して伏兵を起こし、山上や山下から襲ってきた。

日ごろと変わらぬ沈着の中に、関羽の武勇は疲れを知らない。

しかし、山あいに皎々(こうこう。月光などの明るいさま)として半月の冴えるころ、こだまする人々の声を聞いては、さすがの彼も戦う力を失った。

親は子を呼び、子は親を呼ぶ。あるいは夫の名を、あるいは妻の名を、互いに呼び交わす声が悲風の中に絶えだえ聞こえる。そしてここかしこ、関羽の兵は白旗を振り、荊州のほうへ駆け込んでゆく。

「あぁ、これも呂蒙の計か……」

関羽は憮然(ぶぜん)として月にすくみ立っていた。飛び去る鳥の群れは呼べども返らない。行く水は手をもって招いても振り向かない。

およそ戦意を失い、未練に駆られて離散逃亡し始めた兵の足を、再び軍旗の下に呼び帰すことはどんな名将でもできない。もう手をこまぬいて見ているしかなかった。

万事休す――。関羽の姿は冷たい石像のように動かなかった。残る将士は4、500に足らないありさま。それでも関平(かんぺい)と廖化は、わずかな手勢をまとめて敵の囲みを奇襲し、ようやく一方の血路を開いて言った。

「ひとまず、麦城まで落ち延びましょう」

(04)麦城

麦城はほど近いところにあった。だがそこは、今は地名だけ残っている前秦(ぜんしん)時代の古城があるにすぎない。もちろん久しく人も住まず、壁や石垣も荒れ崩れている。

関平も廖化も、士気を鼓舞しようとあえて豪語したが、関羽の前へ出てこう進言した。

「ここから上庸の地はさして遠くありません。上庸城には劉封や孟達がおります」

「救いを求めてかの蜀軍(しょくぐん)を呼び、力を新たにして魏を蹴散らす分には、荊州を取り返すことは十中九まで確信してよいかと思われますが……」

「まさにその一策しかない」と、関羽は櫓(やぐら)に上る。城外を眺めると、満地の山川はことごとく呉旗や呉兵と化していた。

関羽が顧みて言う。

「誰かよくこの重囲を破って上庸へ使いし得よう。出ればたちまち死の道だが――」

聞くやいな、廖化が答えた。

「誓って、それがしがお使いを果たしてみせます。もしあたわぬときは、一死あるのみ。すぐに第二の使者をお出しください」

その夜、廖化は関羽の一書を衣に縫い込み、人々に送られて麦城の一門から紛れ出た。暗夜の途は、すぐさま金鼓鉄槍(てっそう)が鳴り響く。

呉の丁奉(ていほう)の部下が早くも見つけて追いかける。城中から関平の一隊が出て、これを散々に駆け乱すと、ようやく廖化は死線を越えた。

(05)上庸

あらゆる辛酸をなめ、廖化は乞食のような姿になって、ついに上庸に行き着く。彼は劉封に子細を告げた。

「さしもの関将軍も、今や麦城の内に進退まったく窮まっておられる。もし救いが遅延すれば、ご最期を遂げられるしかありません。一日、いや一刻も争うときです。すぐに援軍をお向け願いたい」

劉封はうなずいたが、「ともかく孟達に相談してみるから」と、にわかに呼びに遣った。劉封と孟達は別の閣へ行き、ふたりきりで凝議しだす。

孟達は難しい顔をして説いた。

「断りましょう。せっかくだが、求めに応ずるわけにはいきません」

「なぜと言うまでもなく、荊州9郡には少なくとも40万の呉軍があり、江漢(こうかん)には曹操の魏軍が、これも4、50万は動いておる」

「そこへわずか2千や3千の援軍を送ってみたところでどうなるものですか。かえって、この上庸をも危うくするものです」

孟達の言は常識だったが、劉封には苦悶(くもん)があった。関羽は彼の叔父だからである。

孟達はその顔色を読み、さらに言った。

「あなたは劉家のご養子ですから、本来は漢中王(かんちゅうおう。劉備〈りゅうび〉)の太子たるに、それを妨げた者は関羽でした」

「初め、その儀について漢中王が諸葛亮(しょかつりょう)に尋ねたところ、彼は利口者ですから、『一家のことは関羽か張飛(ちょうひ)にご相談なさい』とうまく逃げた」

「で、漢中王がお尋ねになったところ関羽は、『太子には庶子を立てないのが古今の定法である。劉封はもと螟蛉(めいれい)の子。山中の一城でも与えておかれればよろしいでしょう』と、まるであなたを芥(あくた)のようにしか見ていない復命をしたのです」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(螟蛉の子は)似我蜂(ジガバチ。蜂の一種)が螟蛉(アオムシ)を取って育てることから、異姓養子をいう。異姓養子は重大な禁忌だった」という。

なお劉封は、関羽を見殺しにした場合の世の謗(そし)りを心配したが、孟達はこう言った。

「誰が、一杯の水で薪車(しんしゃ)の炎を消し得なかったととがめましょう」

ついに劉封もその気になり、廖化に会って援軍の派遣を断る。

廖化は愕然(がくぜん)として頭を叩き、面を床にすりつけて痛哭(つうこく)した。

「もしお助けくださらねば、関将軍は麦城に滅びますぞ。見殺しになさる気か!」

それでも劉封は、こう言い捨てて奥へ逃げてしまった。

「一杯ノ水、安(いずく)ンゾ能(よ)ク薪車ノ火ヲ救ワン」

新潮文庫の註解によると「(『一杯ノ水、安ンゾ能ク薪車ノ火ヲ救ワン』は)小さな仁(一杯の水)では、大きな不仁に克(か)てないこと。『孟子(もうし)』告子篇の言葉」という。

廖化は孟達にも面会を求めたが、仮病を使ってどうしても会わない。

彼は地団太を踏んで上庸を去る。罵り罵り馬に鞭(むち)打ち、遥か成都(せいと)を指して駆けた。いかに道は遠くても、このうえは漢中王に直々に救いを仰ぐしかない、と決意したからである。

(06)麦城

麦城は日に日に衰色を示す。関羽と関平以下、500の将士は首を長くして、廖化と援軍の旗を待っていた。

ここへ呉の督軍参謀(とくぐんさんぼう)の諸葛瑾(しょかつきん)がやってくる。彼は降伏を勧めた。

しかし関羽は肩で苦笑するばかりで、まったく聞こうとしない。諸葛瑾を城外へ追い返すと、再び寂(じゃく)として瞼(まぶた)を閉じた。

管理人「かぶらがわ」より

呂蒙の知謀の前に、わずかな手勢とともに麦城へ追い込まれた関羽。いつもはこういう危機になると、諸葛亮の手回しが効いてくるはずなのですけど、今回ばかりは難しそう。

ならば曹操の時のように、いったん孫権に降るというのはどうか? まぁこれも、もはやそのような状況ではないか……。

養子の劉封の立場など、いろいろな問題が絡んでいて、誰かひとりが悪いとは言えないなと、考えさせられました。

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