吉川『三国志』の考察 第277話「鹿と魏太子(しかとぎたいし)」

魏(ぎ)の皇太子の曹叡(そうえい)は15歳になり、その英才は皆の注目を集めていた。彼は父の曹丕(そうひ)と狩りに出たとき、母鹿を亡くした子鹿をどうしても殺せず、思いやりのある一面を見せる。

黄初(こうしょ)7(226)年5月、曹丕が40歳で崩ずると曹叡が帝位を継ぎ、曹真(そうしん)・陳群(ちんぐん。陳羣)・司馬懿(しばい)を中心に、新帝を補佐する体制が固められた。

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第277話の展開とポイント

(01)成都(せいと)

成都の上下は沸き返るような歓呼である。その日、劉禅(りゅうぜん)も鸞駕(らんが。天子〈てんし〉の車)に召され、宮門30里の外まで諸葛亮(しょかつりょう)と三軍を出迎えた。

鸞駕の内に諸葛亮の座を分け、同車相並んで、成都宮の華陽門(かようもん)を入る。全市の民は天にも響く喜びを上げ、宮中の百楼千閣は一時に音楽を奏し、紫雲金城の上に降りるかと思われた。

だが、諸葛亮は自己の功を忘れている。吏に命じ、従軍中に戦死や病没した者の子孫を訪ねさせ、漏るるなくこれを慰めた。

暇があれば、久しく見なかった農村へ行き、今年の実りを問い、村の古老や篤農を訪ね、孝子を顕彰し、邪吏を懲らし、年税の過少をただすなど、あらゆる政治にも心を注ぐ。

このため都市や地方を問わず、今やこの国こそ、楽土安民の相を地上に顕観したものと、上下その徳をたたえない者はなかった。

(02)曹叡の評判と即位まで

魏の曹丕の太子である曹叡の英才は、近ごろうわさになっている。まだ彼は15歳だった。

この年(魏の黄初7〈226〉年)に史実の曹叡は22歳だった。吉川『三国志』では、だいぶ年少に設定している。

母は甄氏(しんし)の娘である。傾国の美女であると言われ、初め袁紹(えんしょう)の次男の袁熙(えんき)に嫁いだ。それを曹操(そうそう)が攻め破ったとき、その息子の曹丕の室に入り、後に曹叡を生む。

ところが曹叡にも、一面の薄幸がつきまとう。母の寵はようやくあせ、父の愛が郭貴妃(かくきひ)に移っていったためである。

郭貴妃は広宗(こうそう)の郭永(かくえい)の娘で、その容色は、魏の国中にもあるまいと言われていた。世の人が女中の王なりとたたえたので、魏宮に入ってからは「女王郭貴妃」と尊称されている。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第91回)では、かつて郭永が「この子は女の中の王様だ」と言ったことがあり、それで女王というあざなを付けたとあった。

しかし、その心は容顔のごとく美しくはない。甄皇后を除くため、張韜(ちょうとう)という廷臣と謀って、桐(キリ)の木の人形に曹丕の生年月日を書き、また何年何月地に埋むと呪文を記し、わざと彼の目に触れるところへ捨てさせた。

曹丕はその佞(ねい)を看破できず、とうとう甄皇后を廃してしまったのである。

史実の甄氏は、存命中に皇后に立てられることはなかった。井波『三国志演義(6)』(第91回)では、甄氏を皇后と表現せず、甄夫人という呼称にとどめていた。

こうして太子の曹叡は、この郭女王に幼少から養われ、苦労もしてきたが、性はしごく快活で、少しもべそべそしていない。とりわけ弓馬には天才的な閃(ひらめ)きがあった。

この年(魏の黄初7〈226〉年)の早春、曹丕は群臣を連れて狩猟に出かけた。ここで一頭の女鹿を見いだし、彼の一矢がよく逸走を射止める。母鹿が射倒されると、その子鹿は横っ跳びに逃げ、曹叡の乗る馬腹の下へ小さくなって隠れた。

曹丕は声を上げ、弓を振るって歯がゆがる。

「曹叡、なぜ射ぬ? いや、なぜ剣で突かぬか? 子鹿はお前の馬の下にいるのに」

すると、曹叡は涙を含んで応えた。

「いま父君が、子鹿の母を射たまうのさえ胸が痛んでおりましたのに、どうしてその子鹿を殺せましょう」

弓を投げ捨て、泣きだしてしまう。

「あぁ、この子は仁徳の主となろう」

むしろ曹丕は喜び、彼を斉公(せいこう)に封じた。

史実の曹叡が斉公に封ぜられたのは、魏の黄初2(221)年のこと。曹叡は曹丕が崩御(ほうぎょ)する直前まで皇太子に立てられず、それまでは平原王(へいげんおう)だった。なお井波『三国志演義(6)』(第91回)では、ここで曹丕が曹叡を平原王に封じていた。

その夏の5月、曹丕はふと傷寒(しょうかん。腸チフス)を病んで長逝する。まだ40歳の若さだった。

井波『三国志演義(6)』(第91回)では、曹丕が風邪をひき、治療しても回復しなかったとしている。

生前の慈しみと遺詔により、曹叡は次の大魏皇帝と仰がれることになった。これは「嘉福殿(かふくでん)の約」によるものである。

「嘉福殿の約」とは、曹丕が危篤に瀕(ひん)した際、3人の重臣を枕頭(ちんとう)に招いて遺詔を託し、3人がこの遺託に背かないと誓ったことを指す。

枕頭に招かれた三重臣というのは、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)の曹真、 鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)の陳群(陳羣)、 撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬懿。

史実では、この3人とともに征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の曹休(そうきゅう)も加わっている。井波『三国志演義(6)』(第91回)では、見舞いに駆けつけた曹休も、曹丕が寝所に呼び入れていた。

これに基づき、三重臣は曹叡を後主(こうしゅ)と仰ぎ、曹丕に文帝(ぶんてい)と諡(おくりな)したうえ、曹叡の生母たる甄氏にも文昭皇后(ぶんしょうこうごう)と諡号(しごう)を追贈した。

自然、魏宮の側臣の顔ぶれや一族の職にも改革をみないわけにはいかない。まず鍾繇(しょうよう)を太傅(たいふ)とし、曹真は大将軍となり、曹休を大司馬(だいしば)とした。

このほか太尉(たいい)の華歆(かきん)、司徒(しと)の王朗(おうろう)、司空(しくう)の陳群などは重なるところだが、なお多数の文武官に対しても叙爵進級が行われ、天下に大赦の令も布(し)かれた。

ここにひとり問題は、司馬懿が驃騎大将軍(ひょうきだいしょうぐん)に就任したことである。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(驃騎大将軍は)大将軍に次ぐ第二位の将軍号。その格式は文官の三公(太尉・司徒・司空)に匹敵する」という。

あえて破格でもないが、この人にして何となくその所を得たような観があった。のみならず彼は、そのころちょうど雍涼(ようりょう)の州郡を守る者がいないことを知っていたので、自ら表を奉って願い出る。

「私に西涼(せいりょう)州郡の守りをお命じください」

西涼州といえば、北夷(ほくい。北方の異民族)の境に近く、都(洛陽〈らくよう〉)とは比較にならないほどの辺境。かつては馬騰(ばとう)が出でて馬超(ばちょう)が現れ、とかく乱が多くて治めにくい地域だ。

求めてこれを治領したいという司馬懿の眷願(けんがん。心からの願い)に、もとより曹叡も勅許したし、魏の重臣たちも、物好きな、とだけで誰も遮る者はない。

このため魏の朝廷は、特に司馬懿の官職をも「西涼の等処(とうしょ)、兵馬提督(へいばていとく)」となして、印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を下した。

(03)赴任途中の司馬懿

司馬懿は北へ向かって赴任の馬を進めながら、実に久々で狭い鳥籠から青空へ出たような心地を抱く。吐く息や吸う息まで広々と覚えられる。

宮中の侍臣や重臣間の屈在もすでに久しいものがあった。曹操時代からの宮仕えである。本来の彼のまじめは、そういう池の中に長く住めるものではなかったらしい。

(04)成都 丞相府(じょうしょうふ)

蜀(しょく)の細作(さいさく。間者)は早耳に知り、すぐにこのことを成都へ報ずる。蜀臣のうちには誰も何とも思う者はいない。

しかしそれを聞くと、ひとり愕然(がくぜん)と唇を結んだ人がある。ほかならぬ諸葛亮だった。

いや、もうひとり。彼と等しい驚きをなし、さっそく丞相府へやってきた者がある。若い馬謖(ばしょく)だった。

ふたりは司馬懿の西涼赴任に憂いを抱く。諸葛亮が、今のうちに討つかと言うと、馬謖はこう答えた。

「いや丞相。南蛮(なんばん)遠征の後、まだ日を経ておりません。ここは考えものでしょう。私にお任せください。曹叡を欺き、兵を用いず、司馬懿を死に至らしめてみます」

若年ながら実に大言である。諸葛亮は馬謖の面を見守った。

管理人「かぶらがわ」より

成都への帰還を果たした諸葛亮と、曹叡の即位後に西涼への赴任を願い出た司馬懿。ふたりの距離が縮まってきましたね。

曹丕と曹叡との微妙な関係など、もう少し掘り下げてもよかったかなとは思います。ただ、そのへんが簡潔な分だけ、話のテンポはよくなっている感じがしました。

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