吉川『三国志』の考察 第130話「臥龍の岡(がりょうのおか)」

劉備(りゅうび)のもとを去り許都(きょと)へ向かう徐庶(じょしょ)だったが、別れ際に推薦した諸葛亮(しょかつりょう)のことが気になる。彼が容易に起つとは思えなかったからだ。

そこで隆中(りゅうちゅう)に立ち寄り諸葛亮を訪ね、これまでの経緯を語ったうえ、ぜひとも劉備に仕えてほしいと頼む。ところが諸葛亮の反応は――。

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第130話の展開とポイント

(01)新野(しんや)の郊外

見送ってくれた劉備と別れた後、徐庶は推薦した諸葛亮のことを考えていた。近日中に必ず劉備は訪ねるだろうが、果たして彼が乞いを容れるかどうか? その性格を考えると容易には動かないと思われた。

徐庶は責任を感じ、隆中へ立ち寄って諸葛亮に会い、別辞かたがた、劉備から懇望があったら召しに応じてくれるよう、よく頼んでおこうと考える。

(02)隆中 諸葛亮の草廬(そうろ)

徐庶は諸葛亮と会い、先ごろから新野で劉備に仕えていたことや、曹操(そうそう)のために老母が許都で捕らわれの身になっていることなどを話す。そして暇(いとま)をもらい、これから許都へ上ろうとしていることも告げた。

さらに、劉備との別れ際に口を極めて推薦したことも伝え、やがて沙汰があった節はまげても召しに応じていただきたいと頼む。

諸葛亮は終始、半眼に睫毛(まつげ)をふさぎ静かに聞いていたが、語気勃然と立って言う。

「徐兄(兄は、主に先輩や同輩の名に添える尊敬語)。ご辺(きみ)はこの孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)を祭りの犠牲(にえ)に供えようというおつもりか」

言い捨てるやいな、袖を払い奥の部屋に隠れてしまった。徐庶はハッと色を変ずる。祭りの犠牲で思い当たることがあった。

むかし某君(あるきみ)が、荘子(そうし)を召し抱えたいと思い使者を差し向けたところ、彼は使いに答えて言ったという。

「子(し。人を呼ぶときの敬称)よ、犠牲になる牛を見ずや。首に錦鈴を飾り美食を飼わしているが、引いて大廟(たいびょう。天子〈てんし〉の祖先をお祭りした御霊屋〈みたまや〉)の祭壇に供えられるときは血を絞られ、骨を解かれるではないか」

徐庶は慙愧(ざんき)した。もとより畏敬する友を牛として売る気などは毛頭ないが、せっかくの交友にふと気まずいものを醸しただけでも、少なからず後悔させられた。

「いつか詫びる日もあろう」と、是非なく席を立つ。

(03)許都

徐庶が泊まりを重ねて許都へ着いたときには、まったく冬になっていた。建安(けんあん)12(207)年11月のことである。

すぐに丞相府(じょうしょうふ)に出て着京の由を届けると、曹操は荀彧(じゅんいく)と程昱(ていいく)のふたりをして丁重に迎えさせた。

翌日、曹操は徐庶と対面。いくつかの雑談を交わした後、徐庶は許しを得て奥の一堂で老母との再会を果たす。

ところが老母は徐庶の姿を見ると、近ごろ新野で劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備のあざな)さまに仕えておると聞き、よそながら喜んでいたものを、と言い、なぜここへ来たのかといぶかる。

徐庶は訳がわからず、手紙をもらったあと暇を乞い、駆けつけてきたことを話す。

ここで老母が徐庶のことを「年三十有余にもなって」と言っていた。史実の徐庶は生没年がはっきりしないものの、吉川『三国志』における年齢設定がうかがえる。『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第37回)では、母が徐庶の年齢に触れるくだりはない。

老母は徐庶が差し出した手紙を見ると激怒し、身を正して叱る。そして身を震わせ泣いていたが、やがて黙然と帳(とばり)の陰に隠れたきり姿も見せなかった。

徐庶も自身の不覚を悔い悩み、ともに泣き伏したまま面も上げずにいた。

帳の後ろで異様な声がしたので駆け寄ってみると、すでに老母は自害していた。徐庶は冷たい母の亡骸(なきがら)を抱え男泣きに叫びながら、その場に昏絶(こんぜつ)。

冬風のすさぶ中、許都の郊外の南原(なんげん)に立派な棺槨(かんかく。柩〈ひつぎ〉。棺は死体をじかに入れる箱。槨は棺を入れる外側の箱)が築かれた。老母の死後、曹操が徐庶を慰めて贈ったもののひとつである。

管理人「かぶらがわ」より

各書に指摘があるように、史実で徐庶が劉備のもとを去ったのは、建安13(208)年の長坂(ちょうはん。長阪)での大敗がきっかけです。

このとき母が曹操軍の捕虜となったため、やむなく徐庶は劉備に別れを告げ、曹操のもとへ赴くことになったのでした。なので諸葛亮とは一時期、一緒に劉備に仕えていたということに。このあたり『三国志演義』では思い切った設定変更がされています。

徐庶の母が自害したことも正史『三国志』には見えません。でも、これは仮に事実だったとしても書かないか――。

ただ、史実の徐庶は魏(ぎ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)に右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)・御史中丞(ぎょしちゅうじょう)まで昇ったということなので、その母が自害したというのは劉備を持ち上げるための創作でしょうね。

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