吉川『三国志』の考察 第025話「競う南風(きそうなんぷう)」

曹操(そうそう)は陳留(ちんりゅう)にいた父の曹嵩(そうすう)の屋敷までたどり着くと、大富豪の衛弘(えいこう)を紹介してもらう。

さらに衛弘から援助の約束を取りつけるや、すぐさま義兵の旗揚げにかかる。曹操が密詔を受けたと吹聴したことも効き、彼の旗の下には続々と英俊精猛が集まってきた。

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第025話の展開とポイント

(01)陳留 曹嵩邸

曹操は陳宮(ちんきゅう)を伴って実家に帰り着き、父の曹嵩に義兵の旗揚げをする決心を伝える。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第5回)では、陳宮は(昨夜の態度を見て)曹操を見限り、ひとり東郡(とうぐん)へ立ち去ったとあった。

また曹操は沛国(はいこく)譙県(しょうけん)出身だが、陳留に曹嵩の家があったのかはわからない。なお、井波『三国志演義(1)』(第4回)では呂伯奢(りょはくしゃ)が曹操に、(曹操を逮捕せよとのお触れが回ったため、)曹嵩はすでに陳留へ避難したと告げていた。

曹操から軍費を出してくれそうな富豪を紹介してほしいと言われ、曹嵩は河南(かなん)でも一、二を争う財産家の衛弘の名を挙げる。

こうして日を定めると、曹嵩は衛弘を招き酒宴を設けた。曹操はその席で胸中の大事を打ち明け、援助を頼んでみる。もし嫌だと言ったら生かしては帰さない、という気を胸に含んでの真剣な膝詰め談判だった。

ところが衛弘は、あっさり援助を承諾。

曹操は近郷から壮丁(成年に達した一人前の男)を駆り集め、白い二旒(にりゅう)の旗を作り、一旒には「義」、もう一旒には「忠」と大書したうえ、朝廷から密詔を受けてこの地に下ったと唱えだす。

さらに陳宮の献策を容れて檄文(げきぶん)を書かせると、これを諸州郡へ飛ばした。

上で述べたような事情があるため、井波『三国志演義(1)』(第5回)ではこのとき曹操のもとに陳宮がいない。

日ならずして、その旗の下には英俊精猛が馳(は)せ参ずる。

(陽平郡〈ようへいぐん〉)衛国(えいこく)の楽進(がくしん)、沛国譙郡の夏侯惇(かこうじゅん)と夏侯淵(かこうえん)兄弟、山陽(さんよう)鉅鹿(きょろく)の李典(りてん)といった者から、徐州刺史(じょしゅうしし)の陶謙(とうけん)、 西涼太守(せいりょうたいしゅ)の馬騰(ばとう)、 北平太守(ほくへいたいしゅ)の公孫瓚(こうそんさん)、 北海太守(ほっかいたいしゅ)の孔融(こうゆう) といった大物まで、それぞれ数千騎、数万騎という軍勢を引き連れて呼応した。

曹仁(そうじん)と曹洪(そうこう)という兄弟も参じ、曹操は衛弘から十分な軍費を引き出して武器や糧食の充実に取りかかった。

李典の出身を山陽鉅鹿としていたのは誤り。正しくは山陽(郡)鉅野(きょや。県)である。

夏侯氏の兄弟について、「曹家がまだ譙郡にいたころ、曹家に養われて養子となっていた者であるから……」と説明されていたが、イマイチしっくりこない。ただ、曹家が譙郡から陳留郡へ移ったという設定にしていることはうかがえた。

(02)渤海(ぼっかい。勃海)

やがて曹操の檄は渤海太守の袁紹(えんしょう)のもとにも届く。袁紹は腹心を集め、さっそく評議を開いた。

このころ彼の幕下には、田豊(でんほう)・沮授(そじゅ)・許収(きょしゅう)・顔良(がんりょう)・審配(しんぱい)・郭図(かくと)・文醜(ぶんしゅう)など錚々(そうそう)たる人材がそろっていた。

許収は正しくは許攸(きょゆう)。吉川『三国志』では両者の混用が見られる。

届けられた檄を読み上げさせると、諸将はみな協力すべきだと言った。袁紹は、曹操が密詔を受けたという点だけは気になったものの、協力する肚(はら)を決める。たちどころに3万余騎をそろえ、夜を日に継いで河南の陳留へ向かった。

(03)陳留

陳留に到着した袁紹は盛んな様子に驚かされる。軍簿に筆を執りながら主要な味方だけを拾ってみても、その陣容は大したものだった。

第1鎮、後将軍(ごしょうぐん)・南陽太守(なんようたいしゅ)の袁術(えんじゅつ)。

第2鎮、冀州刺史(きしゅうしし)の韓馥(かんふく)。

第3鎮、予州刺史(よしゅうしし。豫州刺史)の孔伷(こうちゅう)。

第4鎮、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)。

第5鎮、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)。

第6鎮、陳留太守の張邈(ちょうぼう)。

第7鎮、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の喬瑁(きょうぼう。橋瑁)。

ほか済北相(さいほくしょう)の鮑信(ほうしん)、西涼(西涼太守)の馬騰、北平(北平太守)の公孫瓚など、宇内(天下)の名将や猛士の名が雲のごとくある。

井波『三国志演義(1)』(第5回)では、第1鎮の袁術から第17鎮の袁紹まで漏れなく参加した諸侯の姓名と官職が拾われていた。吉川『三国志』では一部を省略している。

袁紹の軍勢は到着順ということで第17鎮に配された。それでも袁紹は参加の決断をしてよかったと心から思った。

第16鎮の公孫瓚の軍勢には、平原県(へいげんけん)で加わった劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)と10人ほどの家来も含まれていた。

井波『三国志演義(1)』(第5回)では公孫瓚は第14鎮。

こうして曹操の計画はまったく確立し、布陣や作戦もすべて整う。集まった諸侯は18か国(曹操も含む)、兵力は数十万。第1鎮から第17鎮まで備え並べた陣地は200余里に続くと称された。

吉日を卜(ぼく)すと曹操は壇を築き、牛を斬り馬を屠(ほふ)って祭り、旗揚げの儀式を執り行う。この場で盟主として袁紹が推され、翌日には拝天の礼を行って董卓(とうたく)討伐を誓った。

袁紹は信賞必罰を宣言したうえ、弟の袁術に兵糧の奉行(ぶぎょう)を命ずる。さっそく汜水関(しすいかん)を攻め破るべく先陣の将を募ると、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の孫堅(そんけん)が名乗りを上げた。

管理人「かぶらがわ」より

一挙に新顔が出てきた第25話。ここで反董卓連合軍が結成されたわけですが、参加した諸侯の顔ぶれは史実とだいぶ異なります。そのぶんイジった話になっているということで、それはそれで楽しめるとは思いますけど……。

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