吉川『三国志』の考察 第012話「秋風陣(しゅうふうじん)」

どこへ行っても雑軍としての扱いしか受けられず、むなしさを感じ始める劉備(りゅうび)の義勇軍。

やがて河南(かなん)に到着したところ、意外にも朱雋(しゅしゅん。朱儁)から歓迎されるが、やはりこれには裏があった――。

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第012話の展開とポイント

(01)潁川(えいせん)

劉備(りゅうび)らが潁川に行き着いてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。朱雋(しゅしゅん。朱儁)や皇甫嵩(こうほすう)は賊軍を追い、遠く河南(かなん)の曲陽(きょくよう)や宛城(えんじょう)方面へ移駐したとのことだった。

やむなく劉備らは南へ向かって漂泊(さすらい)の旅を続け、やがて黄河(こうが)を渡る。

潁川から南へ向かう過程で、なぜ黄河を渡ることになるのかわからない。何か地理的な誤解があると思われる。

(02)黄河のほとり

4、5年前、黄河のほとりで半日も洛陽船(らくようぶね)を待ち、母のために茶を買ったことを思い出す劉備。

このことについては先の第1話(01)を参照。そこから導かれる4、5年後は熹平(きへい)元(172)年か熹平2(173)年になってしまう。この第12話より、第1話の説明のほうに不可解な点が残った。

涿県(たくけん)の母に体だけは無事であることを知らせておこうと思い、翰墨(かんぼく。筆と墨)を取り出し手紙を書き始める。

そして、義軍の兵士たちが紙片や木片に書いたものも一囊(いちのう。ひとつの袋)に入れると、ひとりの兵士に路費を与え、みなの郷里の家に配達する役目を言いつけた。

ここで紙片が出てきた。紙は後漢(ごかん)の宦官(かんがん)である蔡倫(さいりん)の発明とされ、この時点では発明から100年ほど経っているはず。『三国志』を小説化や映像化する場合には扱いにくい問題だと思う。ここでは竹簡(木簡)や布という意味合いで、「木片や布きれ」にしておいたほうが無難だったかもしれない。

(03)河南 朱雋の本営

朱雋は先ごろから河南地方に何十万と群がる賊の大軍と戦っていたが、思いのほか手強く、味方におびただしい数の死傷者を出し苦戦していた。

ここで劉備の義軍が到着したことを聞くと、朱雋は以前とは打って変わって丁重にもてなす。洛陽の美酒や牛料理で歓待され、正直な張飛(ちょうひ)はすっかり感激してしまった。

翌日、朱雋は劉備に、ここから30里(り)ほど先にある山地に陣取っている、頑強な敵陣の突破を命ずる。拒む理由もなく、劉備は義軍に朱雋の部下3千を加えて出撃した。

(04)鉄門峡(てつもんきょう)近くの山麓(さんろく)

劉備らが山麓の野に近づくと天候が悪化。雨こそ降らないものの密雲が低く垂れ込め、烈風が草を飛ばし、沼地の水が霧となり行く手を暗くした。

朱雋が付けた兵士たちは「賊軍の大将の張宝(ちょうほう。張角〈ちょうかく〉の弟)が妖気(ようき)を起こした」と騒ぎ始め、たちまち全軍が恐怖に覆われてしまう。そこで張飛が蛇矛(じゃぼう)を手に督戦に努めると、朱雋の兵もようやく前進を始めた。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(蛇矛は)穂先が蛇のように曲がっている矛」だという。

(05)鉄門峡

鉄門峡へ近づくと、朱雋配下の部将は「鉄門峡まで行かないうちに、いつも味方は皆殺しになる」と言い、引き返すよう勧めた。だが張飛は、自分たち義軍が先に立って進路を切り開くと言い、進軍を続ける。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第2回)では、張宝が妖術を使い始める前に、副将の高昇(こうしょう。高升とも)が張飛に討たれるというくだりを挟んでいた。しかし、吉川『三国志』では高昇(高升)が使われていない。

そのとき遠くに張宝が現れ、印を結んで何やら呪文(じゅもん)を唱えたかと思うと、人や魔の形をした赤・青・黄などの紙片が五彩の火のように降り注いだ。

この場面でも紙片が使われていた。確かにここで木片が降ってきたのでは雰囲気が出ない。

朱雋の兵はわめき合って逃げ惑い、道も失って右往左往うろたえるのみとなり、もう張飛の督戦も効かなかった。

こうして全軍が完全に闘志を失っている間に、無数の矢や岩石や火器がうなりを上げ、瞬くうちに全軍の半分以上は動かなくなっていた。惨敗した劉備は退却を命じ、約20里の外へ退く。

(06)劉備の軍営

その夜、劉備は関羽(かんう)や張飛と軍議を凝らし、張宝の幻術の秘密が鉄門峡の地形にあることを説き明かす。だが、山に拠る賊軍を攻めるには鉄門峡から攻めかかるほかないように思われた。

そのとき張飛が一策を案じ、絶壁をよじ登り、賊の予測していない所から不意に突き崩すという奇襲策を進言。劉備と関羽もこの策を評価し、さらに密議を練った。

(07)鉄門峡

翌朝、劉備は朱雋の兵の約半分におびただしい数の旗や幟(のぼり)を持たせ、銅鑼(どら)や鼓を打ち鳴らさせると、前日と同じく鉄門峡の正面から強襲するような態を見せた。

一方で劉備自身は関羽と張飛に加え、幕下の強者(つわもの)と朱雋の兵の一部をひきい、鉄門峡から10里ほど北の絶壁を密かに這(は)い進む。そして惨澹(さんたん)たる苦心の末、ついに山の一端によじ登ることに成功した。

すべての兵が登り終えたところで、劉備は関羽とともに厳かなる破邪攘魔(はじゃじょうま。邪道を打ち破り、怪しい術を除き去る)の祈とうを天地へ向かって捧げる儀式を執り行った。

劉備らがふた手に分かれ本拠へ攻め寄せると、張宝は鉄門峡の守りを部将に任せて戻ってきた。その途中、傍らの沢の密林からひと筋の矢が飛び、張宝を射止める。これは劉備の放った矢だった。

井波『三国志演義(1)』(第2回)では、劉備の矢を左肘(ひだりひじ)に受けた張宝は、そのまま包囲を脱して陽城(ようじょう)へ逃げ込んでいた。

その後、劉備らは賊の首を1万余も挙げ、寨(とりで)にかけられた火によって焼死した賊は数えきれないほどだった。7日余りにわたる賊のせん滅戦が続けられ、劉備らは輝かしい武勲を挙げて引き揚げた。

(08)朱雋の本営

朱雋と劉備が戦況を話し合っていたところへ、先陣から伝令が着き異変を告げる。

戦没した張宝の兄弟で天公将軍(てんこうしょうぐん)を称していた張梁(ちょうりょう)が、にわかに大兵をまとめ陽城へ立てこもったという。城壁を高くしており、この冬を守って越そうとする策を取るように見受けられるとも。

張梁が天公将軍を称していることについては、先の第2話(01)を参照。

井波『三国志演義(1)』(第2回)では、このとき陽城に立てこもっていたのは張梁ではなく張宝のほう。

(09)陽城

朱雋は総攻撃を命じ、陽城を大軍で囲み激しく攻め立てる。しかし城は堅固で、城内には食糧も豊富にあったため、ひと月余り費やしても城の一角すら奪えなかった。

(10)陽城 朱雋の本営

朱雋が困り果てていると、遠方から使者が着き新しい情報をもたらした。曲陽方面で黄巾賊(こうきんぞく)の総帥の張角と戦っていた董卓(とうたく)と皇甫嵩の両軍は、7度戦い7度勝つという按配(あんばい)だという。

ここで朱雋・董卓・皇甫嵩が討伐大将軍(とうばつだいしょうぐん)の任を負っていたとあったが、この官職についてはよくわからない。

なお井波『三国志演義(1)』(第2回)では、負け戦(いくさ)続きの董卓が更迭、後任として皇甫嵩が派遣された。しかし皇甫嵩が着任したときには張角が死んでおり、(その弟の)張梁が全軍を指揮して漢軍(かんぐん。朝廷の正規軍)と対戦。

皇甫嵩は続けざまに7戦して7勝。曲陽において張梁を斬殺し、張角の棺を発(あば)いて屍(しかばね)を切り刻み、首をさらしたあと、その首を都(洛陽)に送り届けたという展開になっていた。大筋こそ似ているものの、吉川『三国志』ではいろいろ設定をイジっている。

そこへさらに知らせが届き、張角が陣中で病没したため、総攻撃に出た官軍が一挙に賊軍を壊滅させ15万もの降人を収め、何千という賊の首を辻に掛けたこと。張角が埋葬された墳(つか)を発いてその首級を洛陽に上せ、戦果が報告されたことがわかった。

皇甫嵩は征賊第一勲とされ、車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ぜられて益州牧(えきしゅうのぼく)を兼ねることになり、ほか多数の者が恩賞を受けたという。

井波『三国志演義(1)』(第2回)では車騎将軍・冀州牧(きしゅうのぼく)になっていた。

武騎校尉(ぶきこうい)の曹操(そうそう)も功により済南相(さいなんのしょう)に任ぜられていた。

武騎校尉という官職もよくわからず。

朱雋が劉備の協力を得て賊が眠る間もないほど攻め続けたところ、城内の厳政(げんせい)が密かに内応を申し入れてきた。厳政が張梁の首を斬り軍門に下ると、朱雋は陽城を陥した勢いをもって宛城へ追っていく。

宛城には、黄巾賊の残党である孫仲(そんちゅう)、韓忠(かんちゅう)、趙弘(ちょうこう)という3人の賊将が立てこもっていた。

すでに吉川『三国志』との展開の違いに触れたが、井波『三国志演義(1)』(第2回)では、ここで厳政が斬ったのは張梁ではなく張宝。

(11)宛城

朱雋が6万の軍勢で宛城を固く包囲すると、連日、賊は城門を開いて戦いを挑み、双方ともおびただしい数の死傷者を出した。

城内の兵糧が乏しくなったことから、賊将の韓忠は使者を遣わし降伏を申し入れる。だが朱雋はこれを容れず、使者を斬り苛烈(かれつ)な攻撃を加えた。

劉備は朱雋に、一方の門を賊の逃げ口として与えたうえで、ほかの三方から攻めてはどうかと進言して容れられる。こうして三方から攻め立てられた賊は、開いていた東南(たつみ)の門に向かい乱れ崩れた。

井波『三国志演義(1)』(第2回)では、劉備の進言を容れた朱儁が東と南の二方面の軍勢を撤退させ、西と北から一斉に攻撃を掛けていた。

朱雋は馬を飛ばし、乱軍の中で韓忠を射止める。ところが、残った賊将の趙弘と孫仲が朱雋軍の真ん中を突破したため、朱雋に続き官軍は10里も退却することになった。賊軍は城壁の火を消し、再び四方の門を固めて構え直す。

(12)宛城の城外 朱雋の本営

その日の夕方、総勢1,500人ほどの部隊が整然と到着。この部隊をひきいてきたのは下邳丞(かひじょう)の孫堅(そんけん)だった。朱雋は大いに喜び、翌日には孫堅配下の精鋭1,500も加えて宛城へ迫った。

(13)宛城

朱雋は西門を攻め、孫堅には南門を、劉備には北門を、それぞれ攻めさせ、前日の策どおり東門は道を空けておく。

井波『三国志演義(1)』(第2回)でも朱儁らの手はずは同じだったが、東門を賊の逃げ道として残したのは前日の策に従ったもの、という解釈にはなっていない。

孫堅は瞬く間に南門を突破。自ら城壁によじ登り賊兵の中へ躍り込むと、たちまち趙弘を斬り捨てた。これを見た孫仲は東門から逃げ出すが、望楼のそばにいた劉備の放った矢に射抜かれる。

井波『三国志演義(1)』(第2回)では、孫仲は賊兵をひきいて北門から突撃し、逃げようとしたところを劉備に射止められていた。こちらの記述のほうが(孫仲が空いていた東門から逃げ出したとするより)展開が明快。ただ、孫仲が東門から逃げたとしても矛盾があるというほどではない。

朱雋や孫堅は城内に攻め入り、賊の首を数万級も挙げ、各所の火災を鎮め孫仲・趙弘・韓忠の首を城外に掛けた。そして民に布告を発し、高々と王旗を翻す。

(14)洛陽

その後、朱雋ら官軍は洛陽への凱旋を果たしたが、劉備ら義軍は外城の門のひとつで門番の役目を命ぜられ、内城へは入れてもらえなかった。

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管理人「かぶらがわ」より

戦闘が絡むと項目が増えて参るよなぁ、という愚痴はさておき。劉備ら義軍の活躍もあり張角兄弟はみな亡くなってしまい、黄巾賊も壊滅の方向へと向かったのでした。

ここで孫堅が登場したことで、だいぶ役者がそろってきた感じです。それでも相変わらず報われないのが劉備の義軍。

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