吉川『三国志』の考察 第011話「檻車(かんしゃ)」

官軍の将軍である朱雋(しゅしゅん。朱儁)の命に従い、潁川(えいせん)から広宗(こうそう)へと引き返す劉備(りゅうび)の義勇軍。

その道中、勅使の左豊(さほう)に陥れられた将軍の盧植(ろしょく)を護送していく檻車(かんしゃ)と遭遇する。盧植は劉備の学問の師でもあった。

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第011話の展開とポイント

(01)広宗への道中

朱雋(朱儁)の命により、潁川から広宗へ引き返すことになった劉備の義軍。その道中、劉備らは檻車を引く300人ほどの官軍の一隊に出くわす。

劉備が潁川の陣地を引き払った後、「毎日500の手勢と行軍を続けていても……」という一文があった。前の第10話(07)で盧植が付けてくれた1千余の兵は、潁川に残してきたということだろうか?

この官軍は洛陽(らくよう)の勅使である左豊直属の部隊で、朝旗を掲げていた。また檻車に押し込められていたのは、広宗で官軍を指揮していた盧植だった。

隊将から事情を聴いた劉備は、関羽(かんう)からいくらかの銀を渡させ、盧植と話す許しを得る。

盧植は、軍監として戦況の検分に来た左豊に賄賂を渡さなかったため、身に覚えのない罪をかぶせられ、軍職を褫奪(ちだつ。奪うこと)されたことを語った。

劉備は、官兵を皆殺しにして盧植を助けるという張飛(ちょうひ)を大声で叱りつける。やがて檻車は遠くへ去った。

(02)広宗と涿県(たくけん)への分かれ道

劉備は、盧植が捕らわれの身となり洛陽へ送られたことから、広宗に向かう意味がなくなったとして、ひとまず郷里の涿県へ帰ることにする。

ここでも劉備に付き従う手兵は500余人とあった。やはり盧植が付けてくれた1千余の兵は含まれていない。

(03)涿県への道中

突然、山崩れでも起こったかのように、一方の山岳から鬨(とき)の声が聞こえてくる。

張飛に物見を言いつける劉備。戻った張飛は、広宗方面から逃げ崩れてくる官軍を、黄巾(こうきん)の総帥たる張角(ちょうかく)の軍が勢いに乗って追撃してくるものだと報告。

すぐさま劉備は迎撃を決断し、賊の追撃を山路で中断する。また、奇策を巡らせて張角の本軍までかく乱したうえ、勢いを挽回した官軍と合流して50里余りも賊軍を追った。

このとき広宗から敗走してきた官軍の大将は、董卓(とうたく)という将軍だった。ひと息ついた董卓は、不意に加勢してくれた部隊の部将を呼ぶよう命ずる。劉備が関羽と張飛を従えて面前へ進むと、董卓は席を与える前に姓名を尋ね、彼らの身分をただした。

劉備はむしろ無爵無官の身を誇るように、自分たちは正規の官軍ではなく、天下万民のために大志を奮い起こして立った、一地方の義軍であると答える。

すると董卓はにわかに態度を変え、同席することさえ自身の沽券(こけん)に関わるというように、すぐさま帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)の中に隠れてしまった。

この扱いに不満を爆発させる張飛。しかし劉備に諭され、男泣きして悔しさを耐え忍ぶ。

その夜、劉備らは董卓の陣を去り、手兵500とともに漂泊(さすらい)の旅を続けた。一度は郷里の涿県へ帰ろうとした劉備だったが、関羽からあまりにも無意義だと言われ、張飛も今後は何事も我慢すると言ったので、再び潁川の朱雋の陣地を目指すことにした。

管理人「かぶらがわ」より

賄賂を拒み、罪をかぶせられた盧植。雑軍扱いのため、いくら戦功を立てても報われない劉備の義軍。無官の悲哀がよく出ていたと思います。

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