吉川『三国志』の考察 第112話「于吉仙人(うきつせんにん)」

廬江(ろこう)を攻略した「江東(こうとう)の小覇王」こと孫策(そんさく)は、まさに日の出の勢いだったが、先に処刑した呉郡太守(ごぐんたいしゅ)の許貢(きょこう)の食客に命を狙われ、丹徒(たんと)で狩猟中に重傷を負う。

名医の華陀(かだ。華佗)の治療により快方へ向かっていた孫策のもとに、袁紹(えんしょう)の使者として陳震(ちんしん)がやってくる。孫策は陳震を上座に迎えて大宴を開いたものの、その途中で諸将が席を立ち、街に現れた于吉(うきつ)の姿を見に行く。

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第112話の展開とポイント

(01)孫策の近況

呉の孫策は、ここ数年の間に実に目覚ましい躍進を遂げていた。浙江(せっこう)一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江(ようすこう。長江〈ちょうこう〉)流域とその河口をも扼(やく)していた。

気温が高く天産は豊饒(ほうじょう)で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和により、宛然たる呉国色をここに画し、人の気風は軽敏で利に明るく、進取的だった。

このあたりの説明はイマイチ文意がつかめず。「南方系の文化と北方系の文化との飽和」や「宛然たる呉国色をここに画し(原文は劃し)」という部分が引っかかる。

「江東の小覇王」こと孫策は、このときまだ27歳でしかなかったが、建安(けんあん)4(199)年の冬に廬江を攻略。

史実の孫策は熹平(きへい)4(175)年生まれ。彼が亡くなった建安5(200)年でも26歳だったので、ここでいう27歳は史実と合わない。

黄祖(こうそ)や劉勲(りゅうくん)などを平らげて恭順を誓わせ、予章太守(よしょうたいしゅ。豫章太守)も下風につき降を乞うてくるなど、隆々たる勢いだった。

ここでは予章太守とだけあるが、『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第29回)によれば華歆(かきん)のこと。

孫策は何度か張紘(ちょうこう)を許都(きょと)へ遣わしていた。献帝(けんてい)に上表文を捧げたり、朝廷へ貢ぎ物を届けるためである。

孫策の目にも漢朝(かんちょう)はあったが、朝門の曹操(そうそう)は眼中にない。彼は密かに大司馬(だいしば)の官位を望んでいたが、これを容易に許さないのは朝廷ではなく曹操だった。

曹操は孫策を手なずけることを上策とし、一族の曹仁(そうじん)の娘を孫策の弟の孫匡(そんきょう)に嫁がせ、姻戚政策を採る。

しかし、この程度はほんの一時的な偽装平和を彩ったにすぎず、日が経つといつとはなく、両者の間には険悪な気流がみなぎってきた。

(02)呉の本城

ある日、呉郡太守の許貢の家臣が渡江の途中で江上監視隊に捕らえられ、呉の本城へ送られてくる。

このとき孫策の居城がどこにあったのかよくわからず。一応、文中にある「呉の本城」という書き方にしておく。

取り調べの結果、その家臣は許貢の密書を持っていたことが判明する。大司馬の官位を得られない孫策が恨みを抱き、兵船や強馬をしきりに準備しており、近いうちに都へ攻め上ろうとしていると密告するものだった。

怒った孫策はただちに許貢の居館へ詰問の兵を差し向け、許貢をはじめ妻子眷族(けんぞく)をことごとく誅殺してしまう。

その阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中から、危うくも逃げ延びた3人の食客があった。3人は許貢の恩を感じ、敵(かたき)を取ろうとともに血をすすり合い、山野に隠れて機をうかがった。

(03)丹徒

狩猟が好きな孫策は大勢の家臣を連れ、その日も丹徒という部落の西から深山に入り、鹿や猪(シシ)などを追った。するとここに、かねて狙っていた許貢の3人の食客が現れ、放たれた毒矢が孫策の顔に立つ。

ここで、孫策の馬は希世の名馬で「五花馬(ごかば)」という名があったと言っていた。

孫策は弓を上げて浪人者のひとりを打ったが、別の一方から伸びてきた槍(やり)に太股(ふともも)を深く突かれる。落馬したものの相手の槍を奪い、即座にもうひとり殺したが、後ろからほかのふたりが五体を突きまくった。

孫策が大きなうめき声を発して倒れたとき、残るふたりの浪人者もまた、急を見て駆けつけた程普(ていふ)にズタズタに斬り殺されていた。

応急の手当てを施し、孫策の身はすぐに呉会(ごかい)の本城へ運ばれ、外部へは深く秘される。

ここでは呉の本城ではなく呉会の本城とあった。

『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「(呉会は)地名。両説あって、呉郡すなわち今の蘇州(そしゅう)を指すという説(『通鑑〈つがん〉』巻65、建安12年条、胡三省〈こさんせい〉の注)と、呉郡と会稽郡(かいけいぐん)の二郡を指すとの説(清〈しん〉の銭大昕〈せんたいきん〉の説、『通鑑注弁正』に見える)」があるという。また「ここ(『三国志演義』〈第29回〉)は前の説によって解すべきである」ともいう。

(04)呉(呉会)の本城

早馬により名医の華陀(華佗)が召されて20日も経つと、さすがに手を尽くした治療の効果が表れ、孫策はうっすらと笑みを浮かべるまでになった。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、このとき華佗は中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)に行っており、呉に残っていた弟子が治療にあたったとある。

孫策は都から戻った蔣林(しょうりん)と会い、病床で報告を聴く。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、許昌(きょしょう。許都)から戻ってきた張紘の使者とだけある。

その中には朝廷の者の話として、曹操が、(孫策は)今に内争を招き、名もない匹夫の手にかかって非業な終わりを遂げるかもしれない、などと言っていたというものもあった。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、上のような見解を曹操に語ったのは郭嘉(かくか)。

牀(しょう。寝台)から下りようとするのを人々が止めると、孫策は戦袍(ひたたれ)や兜(かぶと)を持ってくるよう命じ、陣触れせよと言いだす。

叱るがごとくなだめる張昭(ちょうしょう)。そこへ遠く河北(かほく)の地から、袁紹の書を携えた陳震が着く。

孫策は病中の身を押して対面し、陳震から軍事同盟の話が出ると大いに喜ぶ。彼も打倒曹操の念に燃えていたところだったからだ。

孫策は城楼で大宴を開き、陳震を上座に迎える。配下の諸将も参列し盛んなもてなしぶりを示した。ところが、宴も半ばのうちに急に諸将が席を立ち、ざわざわと楼台から下りていく。

孫策が怪しんで左右に尋ねると、近侍のひとりが「于吉仙人が来たもうたので、そのお姿を拝さんと、いずれも争って街頭へ出て行かれたのでしょう」と答えた。

孫策は楼台の欄干から城内の街を見下ろし、人々が于吉を伏し拝む様子を見る。そのうち不快な色を満面にみなぎらせると、すぐに搦(から)め捕ってこいと命じた。

命を受けた武士たちは口をそろえて諫めたが、孫策に大喝され、やむなく于吉を縛って楼台へ引っ立てる。

孫策は于吉を叱るが、彼は自分のやっていることがなぜ悪いのかと反問し、国主のほうこそ礼を言うべきだろうと述べた。怒った孫策は斬るよう命ずるが、進んで于吉の首に剣を加えようとする者はない。

孫策は張昭に諫められても聞こうとせず、今日のところは首枷(くびかせ)をかけて獄に下しておけと、許す気色もなかった。

この話を聞いた孫策の母は、嫁の呉夫人とともに于吉の命乞いをする。それでも孫策は聞き入れず、後閣から立ち去ってしまう。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「呉夫人は孫策の母であり、嫁は大喬(たいきょう。喬夫人)が正しい」という。なお井波『三国志演義(2)』(第29回)では、ここで孫策の母の呉太夫人(ごたいふじん)だけが登場し、嫁のことには触れていない。

やがて孫策が典獄頭(てんごくのかみ)に命じて于吉を引き出させると、首枷がかけられていない。典獄をはじめ牢役人の大半も于吉に帰依していたので、その縄尻を持つことも厭(いと)う様子だった。

孫策は剣を払い、たちどころに典獄の首を刎(は)ねる。さらに于吉を仙人と信ずる数十人の刑吏も、武士に命じてことごとく斬刑に処した。

ここへ張昭以下、数十人の重臣たちが連名の嘆願書を携え、皆で于吉の命乞いに来る。孫策はあざ笑い、かつて交州太守(こうしゅうたいしゅ)を務めた南陽(なんよう)の張津(ちょうしん)の話を持ち出し、于吉もこの類いだと断じた。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、張津を交州刺史(こうしゅうしし)としている。

すると呂範(りょはん)が勧める。于吉が真の神仙か、妖邪の徒か、試みに雨を祈らせてみてはどうかというのだった。

孫策はこれに同意し、吏に命じて市中に雨乞いの祭壇を造らせる。市街の広場に壇が築かれると、于吉は沐浴(もくよく)して座った。

孫策は、3日目の午(うま)の刻(正午ごろ)までに雨が降らないときは、この祭壇とも于吉を焼き殺すよう厳命していた。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、この日(1日目)の午の刻までとしている。

こうして3日目の朝を迎えたが、雨は一滴も降らない。地上には、伝え聞いて集まった数万の群集が、それこそ雲のごとくひしめいていた。

そして午の刻になると、孫策は于吉を焼き殺すよう城楼から下知する。

于吉の姿が炎に包まれると、見る間に雷が鳴って電光がはためき、痛いような大粒の雨かと思ううち、盆を覆すような大雷雨になった。

雨は未(ひつじ)の刻(午後2時ごろ)まで降り続け、市街は川となり、濁流に馬も人も石も浮くばかり……。

しかし祭壇の上で于吉の大喝が空をつんざくと、はたと雨はやみ、再び耿々(こうこう)たる日輪が大空に姿を見せた。

諸将は駆け寄って祭壇から于吉を下ろし、我がちに礼拝や賛嘆をしてやまない。だが、車に乗り城門から出てきた孫策は、なおも斬るよう言い、自ら抜き払った剣で首を刎ねてしまった。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、孫策が衛兵を叱咤(しった)して于吉を斬らせていた。

日輪は赫々(かっかく)と空にありながら、また沛然(はいぜん)と雨が降りだす。人々が怪しんで天を仰ぐと、一朶(いちだ)の黒雲の中に于吉の影が寝ているように見える。

その日の夕方ごろから、孫策の様子が少しおかしくなった。目は赤く血走り、熱もあるように見受けられた。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には超人的な不思議キャラが数多く登場しますが、于吉の場合はどうだったのでしょう?

統治者としては国内に邪宗がはびこるのを警戒するのは当然ですが、それが本物の神仙だったときはどうすべきなのか?

このときの孫策の対応を一概に批判できないと思います。明確な基準がないので適切な対応というのも難しいですよね……。

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