吉川『三国志』の考察 第111話「兄弟再会(きょうだいさいかい)」

汝南(じょなん)の古城で張飛(ちょうひ)と合流した後、関羽(かんう)は孫乾(そんけん)とともに汝南城へ急ぐ。ところが劉辟(りゅうへき)から、劉備(りゅうび)が再び河北(かほく)へ戻ってしまったことを聞かされる。

関羽は冀州(きしゅう)の境まで進んでひとまず留まり、孫乾を遣って劉備に連絡をつける。劉備は簡雍(かんよう)の献策を用いて袁紹(えんしょう)のもとを離れ、関定(かんてい)の屋敷で関羽との再会を果たした。

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第111話の展開とポイント

(01)汝南(平輿〈へいよ〉?)近くの古城

劉備の二夫人と関羽らが迎えられた晩、山上の古城にはある限りの燭(しょく)が灯され、原始的な音楽が雲の間に聞こえていた。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第28回)では古城を地名として扱っているが、吉川『三国志』では(汝南近くの)古い城としていた。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「古城(県)は後漢(ごかん)では豫州(よしゅう)汝南郡に属す地域。後漢・三国時代にはこの地名はなかった」という。

翌日、望楼に立っていた物見が、弓矢を携えた4、50騎の一隊が向かってくると告げる。

張飛が南門へ行ってみると、それは徐州(じょしゅう)没落の時に別れたきりの味方、糜竺(びじく。麋竺)と糜芳(びほう。麋芳)の兄弟たちだった。

糜兄弟はさっそく城内に通り二夫人に拝謁。また関羽とも会い、こもごも久闊(きゅうかつ)の情を叙した。

翌日の夜明け前、関羽は孫乾と連れ立ち、劉備との再会を果たすべく汝南城へ急ぐ。

(02)汝南(平輿?)

関羽と孫乾が劉辟に会うと、4日ほど前までここにいた劉備が、再び河北へ戻っていったと聞かされる。

(03)古城

むなしく古城へ帰ると、孫乾がもう一度河北へ行き、必ず劉備を連れてくると言う。

すると張飛が行くと言いだすが、関羽は、今はこの古城が重要な拠点だとし、断じてここを動かないよう言う。

そこで関羽が孫乾を案内に、わずかの従者を連れて河北へ向かうことになった。

(04)臥牛山(がぎゅうざん)

臥牛山のふもとまで来ると関羽は周倉(しゅうそう)を呼び、先にここで別れた裴元紹(はいげんしょう)のところへ使いに行かせる。裴元紹は約500の手勢と5、60頭の馬をもって、山寨(さんさい)に立て籠もっているはずだった。

近いうちに皇叔(こうしゅく。天子〈てんし〉の叔父。劉備のこと)をお迎えした帰りにここを通るから、その折に手勢を引き具して、途中で出迎えるよう伝言したのだった。

『三国志演義大事典』によると「臥牛山は山の名。後漢・三国時代には存在しない」という。また「河南省(かなんしょう)嵩県(すうけん)の西南には伏牛山(ふくぎゅうざん)という山脈があり、当時の司隷州(しれいしゅう)弘農郡(こうのうぐん)から荊州(けいしゅう)南陽郡(なんようぐん)に及んでいる。『三国志演義』の臥牛山は、あるいはこれを指しているかもしれない」ともいう。

(05)冀州の州境

日を経て関羽と孫乾は冀州の境まで来る。ここで孫乾は大事を取り、関羽にこのあたりで仮の宿を探して待つよう言い、ひとりで冀州へ入っていく。

(06)関定の家

関羽はわずかな従者とともに、近くの村の一軒に泊めてもらうことにした。数日いるうちに心根もわかったので、話の折に主の問うまま自分の姓名を打ち明ける。

同姓ということに驚いた主は関定と名乗り、ふたりの息子とも引き合わせた。兄の関寧(かんねい)は儒学に長じ、弟の関平(かんぺい)は武芸に熱心な若者だった。

『三国志演義(2)』(第28回)では弟の関平が18歳、兄の関寧は年齢不詳。

(07)冀州(鄴城〈ぎょうじょう〉?) 劉備の居館

冀州へ紛れ入った孫乾は、首尾よく劉備の居館を探り当てて近づく。その後の一部始終から一族の健在を聞き、劉備の喜びは例えようがなかった。

劉備は冀州に戻ったことを悔やむが、ここに来て袁紹の信頼を得ていた簡雍に知恵を借りることにする。

簡雍は近ごろ劉備を慕って冀州へ来た。だが、袁紹の心証を考えてわざと劉備には冷淡に接し、袁紹に気に入られるよう努めていた。そういう間柄なので、簡雍は劉備の居館を訪ねてすぐに帰ったが、目的はその短時間に足りていた。

(08)冀州(鄴城?)

翌日、劉備は簡雍の策を胸に秘して登城。荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を味方に付けようと袁紹を説く。

すると袁紹は、これまでにも数度の使者を遣わしたことを話し、劉表があえて結ぼうとしないのだと言う。

しかし劉備は、劉表とともに漢室(かんしつ)の同宗である自分が出向けば、必ず味方に加えることができると自信を見せる。さらに、許都(きょと)を脱出して諸所をさまよっているという関羽についても、一緒に連れ帰ると言う。

袁紹は大いに意を動かされ、出発の許可を与える。ここで劉備は、自分が荊州に行き着くまで、味方にも極めて内分にしておくよう頼む。

こうして一夜に身支度を整えると、翌日には密かに袁紹の書簡を受け取り、風のごとく関外へ走り去った。

この後すぐ簡雍が袁紹に、劉備は温和な人物なので、反対に劉表に説き伏せられてしまう恐れがあると不安を煽(あお)る。簡雍は随員としてついていく許しを得ると、関門の割り符をもらって馬を飛ばした。

夕方になり、郭図(かくと)がこのことを耳にする。部下に調べさせてみると、その前には劉備が荊州へ旅立ったという。

郭図は袁紹を諫め、追い討ちをかけるよう勧める。だが袁紹は、劉備の言葉に加えて簡雍の二重の計にもかけられていたので、深く信じ込んで疑わなかった。

(09)関定の家

ほどなく簡雍は劉備に追いつき、冀州の境も無事に通り抜ける。孫乾がふたりを案内すると、門前には主の関定や関羽以下の面々が立ち並んで出迎えていた。

関定はふたりの息子とともに門を開き、劉備を奥へ招ずる。住居はわびしい林間の一屋ながら、心からの歓待は善美な贅(ぜい)に勝るものがあった。

やや人なき折を見て、劉備と関羽は初めて手を取り合って泣く。関羽は劉備の沓(くつ)に頰を寄せ、劉備はその手を押しいただいて額に付けた。

ささやかな歓宴の座で劉備は関定の息子の関平を愛(め)で、「関羽にはまだ子もないから、次男の関平を養子に乞い受けてはどうか」と言う。

関定は願ってもないことと喜び、関羽も密かに関平の才を愛していたので、たちどころに話がまとまる。袁紹の追手が来ないうちにと、一同は翌朝すぐに出発した。

(10)臥牛山

急ぎに急いで旅は日ごとにはかどる。やがて雲表に臥牛山の肩が見えだし、翌日にはふもとの道に差しかかった。

するとかねて関羽の指図で、このあたりに手勢をひきいて出迎えるはずだった裴元紹の手下たちが、彼方(かなた)から猛風に追われたように逃げ散ってくる。

関羽がその中にいた周倉にただすと、自分たちがお迎えのため勢ぞろいして山から下りてきたところ、馬をつないで路上で寝ている浪人者がいたのだという。

先頭の裴元紹がどけと罵ると、その浪人者は、山賊の分際で白昼に通るとは何奴かと、跳ね起きるやいな斬り伏せてしまったのだとも。

関羽は聞き終わると一騎で真っ先に立ち、山麓の高所へ駆け上がっていった。劉備も鞭(むち)をあて、すぐ後に続く。

彼方の岩角に駒を立てていた浪人者は、劉備の姿を見るとたちまち鞍(くら)から下り、関羽が来たときにはもう地上に平伏している。浪人者というのは公孫瓚(こうそんさん)の滅亡以来、各地を遍歴していた趙雲(ちょううん)だった。

劉備は、ここで出会ったことは天の賜物だと感激し、この日から趙雲が麾下(きか)に加わった。

(11)古城

喨々(りょうりょう)たる奏楽が湧き上がる中、劉備はふたりの夫人や張飛らとの再会を果たす。この夜は牛馬を宰して、聚議(しゅうぎ)の大歓宴が設けられた。

劉辟と龔都(きょうと。共都)も駆けつけ、かねての約束である汝南を献ずると言う。そこで古城には一手の勢を残し、劉備は汝南へ移った。

(12)冀州(鄴城?)

日の経つほどに、袁紹は焦燥と不安に駆られる。郭図から、劉備が配下を集めて汝南に立て籠もっていることを聞くと、大軍を差し向けようとするほど怒った。

郭図は袁紹をなだめ、劉備の変は体にできた疥癬(かいせん)の皮膚病にすぎず、何と言っても心腹の大患は曹操(そうそう)の勢威だと諭す。

さらに、劉表には大国や大兵はあっても雄図がないと指摘し、むしろ南方の呉(ご)の孫策(そんさく)こそ用いるべき勢力であると説く。

それから半月ほど後、袁紹の重臣の陳震(ちんしん)が書を載せて呉へ下った。

管理人「かぶらがわ」より

徐州の陥落以来、離ればなれになっていた劉備主従が再結集。おまけ(というには大きすぎますが)に趙雲が新加入。まだ兵は少なく地盤も軟弱なものの、陣容だけは急速に強化された観があります。

しかし裴元紹の死は何だったのでしょう? やっていたことは周倉と同じなのに、何だかなぁ――。ごくあっさりと、趙雲の引き立て役にされてしまいましたね。

あと関平だけではなく、その兄だという関寧も使ってほしかったと思います。儒学に長じているとか言っていたのに、出番がここだけとは……。

ちなみに、関平が関羽の養子だったことは正史『三国志』には見えません(実子であるように描かれています)。このあたりは『三国志演義』の創作ですね。

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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