諸葛亮(しょかつりょう)は益州(えきしゅう)南部の諸郡を平定し、永昌(えいしょう)で孤軍奮闘していた太守(たいしゅ)の王伉(おうこう)と対面する。
王伉から呂凱(りょがい)を紹介された諸葛亮は、さっそく蛮国征伐についての意見を聴く。このとき呂凱は一枚の絵図を献ずるが、これは蜀軍(しょくぐん)にとって何物にも代えがたい宝となった。
第264話の展開とポイント
(01)永昌
益州の平定により、蜀蛮(しょくばん)の境を乱していた諸郡の不良太守も、ここにまったくその跡を絶つ。したがって、諸葛亮が来るまで反賊の中に孤立していた永昌郡の囲みも、自ら解けた。
太守の王伉は感涙に顔を濡らしながら、城門を開いて蜀軍を迎え入れる。諸葛亮は王伉の孤忠をたたえ、同時にこうも尋ねた。
「ご辺(きみ)には良い家臣がおると思われる。そも、誰がもっぱら力になって、この小城をよく守らせたのであるか?」
王伉が呂凱のことを話すと、諸葛亮はここへ招くよう促す。やがて呂凱がやってくると、諸葛亮は高士として迎え、蛮国征伐についての意見を叩いた。
このとき呂凱は、平蛮討治図(へいばんとうちず)とも南方指掌図(なんぽうししょうず)とも呼んでいる絵図を献ずる。
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第87回)では、平蛮指掌図と呼ばれていた。
多年の間、密かに蛮地へ人を遣り、その風俗や習性、武器や戦法を調べ、一方では南蛮国の地理をつぶさに考察し、ついに成した一図なのだと。
諸葛亮は感心し、改めて呂凱を征蛮行軍教授(せいばんこうぐんきょうじゅ)の要職に推す。
★井波『三国志演義(6)』(第87回)では行軍教授とある。
こうして永昌城にあるうちに十分な装備を整え、蛮地の研究をした後、大軍をいよいよ南へ進めた。
(02)行軍中の諸葛亮
日々百里、また数百里と、行軍の輸車労牛は、炎日の下を延々と続いていく。諸葛亮は一隊ごとに軍医を配し、糧食飲料のことから、夜営の害虫や風土病などについて、全軍の兵のうえに細心の注意をそそいだ。
(03)諸葛亮の本営
ここへ劉禅(りゅうぜん)の勅使として馬謖(ばしょく)が来る。
★行軍の途中なので仕方ないが、このときの野営地がどこだったのかわからず。
馬謖は無色の素袍(ひたたれ)を着て、白革の胸当てを付けており、いわゆる喪服の装いだった。諸葛亮の様子を察した馬謖は、出立の前に兄の馬良(ばりょう)が亡くなったと、私事から話す。
★史実の馬良は、蜀の章武(しょうぶ)2(222)年に死去している。
そして、自分が来たのは都に異変があったからではなく、軍に下賜された成都(せいと)の佳酒100駄を届けるためだと伝えた。
その日の夕方には下賜の酒も着く。諸葛亮は諸軍に分かち、星夜の野営に蛮土の涼をともに楽しみながら、馬謖と対して一杯を酌んだ。四方山(よもやま)の話の末、諸葛亮は蛮国討治についての意見を聴く。
馬謖は、未開の夷族(いぞく。異民族)に王化の徳を知らしめ、心から畏服させることが難中の難事だと応じたうえ、こう言った。
「兵を用いるの道は、心を攻むるをもって上とし、武力に終わるは下なりと承っております」
「願わくは丞相(じょうしょう。諸葛亮)の軍が、よく彼らを帰服せしめ、恩を感じ、徳に懐き、蜀軍が都へ引き揚げた後も永劫(えいごう)に王化は残り、二度と背くことがないようにありたいものと存じます」
諸葛亮は長嘆し、きみの高論はまさに私の思うところと一致したものだと言い、斜めならずその才志を愛(め)でた。
そこで朝廷へは別に使いを遣り、馬謖はこのまま陣中に留め、参軍(さんぐん)の一将として常に自分のそばに置く。
(04)行軍中の諸葛亮
諸葛亮は例の四輪車に乗り、白羽扇を手に、日々百里、また百里、見る物みな珍しい蛮土の道を延々50万の兵とともに、果てなく歩み続けた。
密林の猛獣も険谷の鳥も、南へ南へと逃げ回る。かくて蛮国の南夷には、諸葛亮の来攻が声から声に伝えられた。南蛮国王(なんばんこくおう)の孟獲(もうかく)は大軍を集結し、かえって蛮都から遠く出撃してくる。
(05)五渓峰(ごけいほう)
偵察兵が探ってきたところにより、蛮軍の総数は約6万であると判明。これを2万ずつ三手に分かち、三洞の元帥と称する者、金環結(きんかんけつ)を第一に、董荼奴(とうとぬ)を第二に、阿会喃(あかいなん)を第三に備え、待ち構えているという。
★井波『三国志演義(6)』(第87回)では、金環結が金環三結(きんかんさんけつ)、董荼奴が董荼那(とうとな)とあり、阿会喃は同じ表記になっていた。
★また井波『三国志演義(6)』(第87回)では、このとき3人がひきいた蛮兵は5万ずつ。
それに対し、諸葛亮はこう命じた。
「王平(おうへい)は左軍へ、馬忠(ばちゅう)は右軍へ当たれ。私は趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)をひきいて中央へ進む」
★ここで出てきた馬忠は、先の第253話(04)で糜芳(びほう。麋芳)と傅士仁(ふしじん)に寝首を搔(か)かれた人物とは、もちろん別人。
蛮軍は五渓峰の頂に防寨(ぼうさい)を築き、三洞の兵を峰続きに配し、「中国の弱兵には、この険峻(けんしゅん)さえ登ってこられまい」と驕(おご)っていた。
月明かりを利し、その下の渓道(たにみち)まで寄せてきた王平や馬忠の先手は、途中で捕らえた蛮兵の斥候を道案内とする。
間道を伝って道なき道をよじ登ると、夜半、不意に敵の幕舎を東西から襲った。蛮軍は上を下への大混乱。
蛮将の金環結は手下を叱咤(しった)しながら、炎の中から突いて出る。蜀軍にも一将が現れ、猛闘血戦の末に金環結の首を取った。これを見た土蛮の兵は、さながら枯れ葉を巻くように四散し、董荼奴や阿会喃の陣へ隠れ込む。
趙雲や魏延ら蜀の中軍は、そのころ敵の両陣を攻めおめいていた。南蛮勢は前後に蜀軍を見て、いよいよ度を失い、谷に飛び込んで頭を砕く者、木によじ登って焼け死ぬ者、また討たれる者や降る者、数知れない。
やがて夜が明けた。諸葛亮は快げに朝の兵糧を喫し、夜来の軍功を尋ねる。金環結を討ち取ったのは趙雲で、その首を実検(討ち取った敵の首が本物かどうか調べること)に供えた。
ほかの蛮将は逃げたと思われたものの、諸葛亮は生け捕っていることを打ち明ける。これに驚かぬ者はなかったが、彼の説明で子細は解けた。
諸葛亮は、かねて帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)の内に伴っている呂凱に付き、この辺の地形を詳細に研究していたのである。
中軍と両翼が正攻法を採って前進する3日も前に、張嶷(ちょうぎ)と張翼(ちょうよく)に間道潜行部隊を授けていた。これを遠く敵寨の後方へ迂回(うかい)させ、道路に埋伏しておいたものだという。
諸葛亮は、首を刎(は)ねようかと言う諸将を制し、かえって董荼奴と阿会喃の縄を解かせる。ふたりには酒肴(しゅこう)を出して慰め、さらに蜀錦の戦袍(ひたたれ)を授けて諭し、夜に入ってから解放した。
ふたりとも「ご恩は忘れません」と、涙を流して去る。その後、諸葛亮は諸人に告げた。
「見よ、明日は必ず孟獲が自らこれへ攻め寄せてくるに違いない。おのおの手に唾して、これを生け捕りにせよや」
続いてその際の計策を授ける。趙雲と魏延は5千騎ずつをひきい、王平や関索(かんさく)なども一手の兵をひきい、翌朝早くに本陣から別れていった。
管理人「かぶらがわ」より
呂凱を加え、情報不足を克服した諸葛亮。こういう特異な地域への進軍には、地勢のデータは欠かせません。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)には、このときの南征について、建興(けんこう)3(225)年の3月から征討にかかった記事があり、その年の12月に、諸葛亮が成都に帰還したという記事があるだけ。
また『三国志』(蜀書・諸葛亮伝)には、建興3(225)年の春に南征を開始し、秋にはことごとく平定したとあり、こちらにも簡単な記事があるだけでした。
孟獲がらみの逸話については、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』に見えています。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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