吉川版『三国志』の考察 第263話 「南蛮行(なんばんこう)」

数年をかけ蜀(しょく)の国力回復に努めた諸葛亮(しょかつりょう)。孟獲(もうかく)を中心とする勢力が南方の諸郡で騒動を起こしたことから、自ら南蛮討伐を行いたいと願い出て劉禅(りゅうぜん)の許しを得る。

諸葛亮は数十名の部将と50余万もの大軍を整え、速やかに成都(せいと)を発つ。益州(えきしゅう)南部は気候や地勢が厳しく、その行軍は困難を極めた。

第263話の展開とポイント

(01)淮河(わいが)

壮図空しく曹丕(そうひ)が引き揚げてから数日後、淮河一帯を眺めると、縹渺(ひょうびょう)として見渡す限りのものは、焼け野原となった両岸の蘆(アシ)や萱(カヤ)と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸(ざんがい)と、油まじりの水面に漂う魏兵(ぎへい)の死骸だけ。

実にこの時の魏の損害は、かつて曹操(そうそう)時代に受けた赤壁(せきへき)の大敗にも劣らないものであった。

ことに人的損傷は全軍の3分の1以上に及んだとも言われ、航行不能になり捨てていった船、兵糧や武具など、呉の鹵獲(ろかく)は莫大(ばくだい)な数に上る。

わけても大勝の快を叫ばせたものは、「魏の名将の張遼(ちょうりょう)も討ち死にを遂げたひとりに入っている」ということだった。

史実の張遼は魏の黄初(こうしょ)3(222)年に病死している。そのため魏の黄初5(224)年の東征には参加していない。なお井波版『三国志演義』(第86回)では、張遼は許昌(きょしょう)に帰り着いてから矢傷が破裂して亡くなったことになっていた。

(02)建業(けんぎょう)

かくて呉(ご)の国防力にはさらに不落の自信が加えられた。その論功行賞にあたり、戦功第一に推された者は孫権(そんけん)の甥の孫韶(そんしょう)である。

これは都督(ととく。ここでは『大都督〈だいととく〉』の意)の徐盛(じょせい)からの上表を受けてのことだったが、孫権はこう言った。

「否々。魏軍を驕(おご)り誇らせ淮河の隘口(あいこう)に誘い、周密にこの大勝をなすの遠謀を備えていた都督の大計には比すべくもない。軍功第一は徐盛でなければなるまい」

こうして徐盛を一に、孫韶を二に、そして第三以下、丁奉(ていほう)やそのほかの者にも順次恩賞が沙汰された。

(03)成都(せいと)

翌年、蜀(しょく)は建興(けんこう)3(225)年の春を平和のうちに迎えていた。その興隆は目に見えるものがある。諸葛亮(しょかつりょう)はよく劉禅(りゅうぜん)を扶(たす)け、内治と国力の充実に心を傾けてきた。

両川(りょうせん。東川〈とうせん〉と西川〈せいせん〉。漢中〈かんちゅう〉と蜀のこと)の民もその徳に懐き、成都の街は夜も門戸を閉ざさぬほど。

加うるにここ両三年(2、3年)は豊作が続き、官の工役にはみな進んで働くし、老幼腹を鼓(う)って楽しむ、というようなほほえましい風景が田園の随所に見られた。

けれど、こういう楽土安民の姿も四隣の情勢によって、たちまち軍国のあわただしさに返らざるを得ない。時に南方から頻々たる早馬が着き、急を伝えた。

「南蛮国王(なんばんこくおう)の孟獲(もうかく)が辺境を侵し、建寧(けんねい)・牂牁(そうか)・越嶲(えっすい)の諸郡も心を合わせたとのこと」

「永昌太守(えいしょうたいしゅ)の王伉(おうこう)だけが忠義を守り孤軍奮闘中ですが、それもいつ陥ちるか知れない情勢です」

この時の諸葛亮は実に果断速決で、その日に朝(ちょう)へ出ると、劉禅に謁して別れを告げる。

「南蛮は、どうしても一度これを討伐して帝威をお示しにならなければ、永久に国家の患いとなるものでした。臣久しくその折を計っておりましたが、今は猶予しておられません」

「陛下はまだご年少ですから、どうか成都にあって、臣のいない間もご政務にいそしみあそばしますように」

劉禅はいとも心細げに、誰かほかの大将を遣わしてはどうかと言ったが、諸葛亮は否と顔を振り応えた。

「私がおらずとも四境の守りは大丈夫です。ことに白帝城(はくていじょう)には李厳(りげん)をこめておきましたから、呉の陸遜(りくそん)の知謀もよく防ぎましょう」

「また魏は昨年呉へ迫って、いたく兵力や大船を損じておりますから、にわかにほかへ野望を向ける気力はないものと見て差し支えございません」

それからもいろいろ慰め、しばしの暇(いとま)を願うと、劉禅もついにうなずく。それでも諫議大夫(かんぎたいふ)の王連(おうれん)は、何とかお考え直しはなりませぬかと、しきりに止める。

諸葛亮は忠言を謝しながらも、あえて再三の諫めに従わず、即日、数十人の大将を選んで各部に分け、総軍50余万が益州(えきしゅう)南部へと発向した。

(04)行軍中の諸葛亮

その途中、亡き関羽(かんう)の三男で関興(かんこう)の弟にあたる「関索(かんさく)」がただ一騎で加わった。

諸葛亮は涙をたたえて子細を聴く。なぜなら荊州(けいしゅう)が陥落した際、関索は関羽の手に付いていたので、今日まで戦死と確認されていた者だったからである。

関索は答えた。

「荊州が敗れた折、私は身に深手を負い、鮑氏(ほうし)の家にかくまわれておりました。今日、丞相(じょうしょう)が南蛮へご進発あるといううわさをお聞きし、昼夜分かちなくこれまで駆けつけてきたわけです」

諸葛亮はひとかたなく喜び、再生の関索も勇躍して先陣に就いた。

(05)益州の南部

行軍は益州の南部に入る。山川は険しく気候は暑く、軍旅の困難は到底、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉流域)の戦(いくさ)とは比べものにならない。建寧太守は「雍闓(ようがい)」という者だった。

「建寧郡」は、諸葛亮の南征後に益州郡から改名および改組されたもの。雍闓が「建寧太守」だったという設定は史実とは異なる。

すでに彼は反蜀連合の一頭目をもって自負し、背後には南蛮国の孟獲と固く結び、左右には越嶲の高定(こうてい)や牂牁の朱褒(しゅほう)と一環の戦線を形勢している。まず6万の軍勢を通路へと押し出し、蜀軍をもみつぶさんと待ち構えていた。

この軍の大将は「鄂煥(がくかん)」と言い、面は藍墨(あいずみ)で塗ったごとく、牙(きば)に似た歯を常に唇の外に露(あら)わしている。怒るときは悪鬼のごとく、手に方天戟(ほうてんげき)を遣えば万夫不当。雲南(うんなん)随一という聞こえのある猛将だ。

序戦第一日に、これに当たったのは蜀の魏延(ぎえん)。魏延は諸葛亮から策を授けられていたので、いたずらに勇を用いず、もっぱら知略をもって彼らを疲れさせる。

その7日目の戦いで、盟軍の張翼(ちょうよく)や王平(おうへい)のふた手と合し、鄂煥をうまうまと重囲の檻(おり)に追い落とし、これを擒(とりこ)にした。

だが、諸葛亮は縄を解いて鄂煥を放し、その帰り際にこう諭す。

「きみの主人は越嶲の高定だろう。彼は元来、忠義な人だ。野心家の雍闓に騙(だま)され、謀反に与(くみ)したものに違いない。立ち帰ったらよく忠諫してあげるがよい」

(06)益州の南部 高定の本営

命拾いをした鄂煥は自分の陣地へ帰るとすぐに高定と会い、蜀軍の強さや諸葛亮の徳について話す。すると折悪しく、そこへ雍闓が訪ねてきた。

雍闓は高定から、鄂煥が諸葛亮に許されて帰ったことを聞くが、それが彼奴(きゃつ)の詐術というものだと、噴き出して笑う。こう話しているところへ夜襲があったので、雍闓も自分の城へ逃げ帰ってしまった。

(07)益州の南部 諸葛亮の本営

翌日、雍闓は城を出ると味方の高定と固く連携し、しきりに蛮鼓貝鉦(ばいしょう)を打ち鳴らして蜀軍に戦いを挑む。

「蛮鼓貝鉦」についてはよくわからなかった。「蛮鼓」は南蛮で使われていた太鼓のようなものだと思うが、「貝鉦」のほうはさらに謎。「法螺貝(ほらがい)と鉦(かね)」または「貝殻で作られた鉦のようなもの」といったところだろうか?

諸葛亮は笑って見ているのみで、「しばらく傍観しておれ」と、3日間戦わず、4日目も出撃せず、およそ7日ほどは柵(さく)の内に静まり返っていた。

蜀軍は弱いと甘く見たらしく、8日目のころ南蛮軍は大挙して迫ってくる。地上に図を描いたように的確な謀(はかりごと)をもって、諸葛亮はそれを待っていた。そして大量の俘虜(ふりょ)を得た。

諸葛亮は俘虜を二分し、2か所の収容所に入れる。一方には雍闓の兵ばかりを入れ、もう一方には高定の兵ばかりを押し込めた。そのうえで、わざとそこらに風説を撒(ま)かせる。

「高定はもともと蜀に忠義な者だから、彼の部下は放されるらしいが、雍闓の部下はことごとく殺されるだろう」

ひとつの収容所では歓喜し、もうひとつの収容所では泣き悲しんだ。

日を置いて諸葛亮は、まず雍闓の部下から先に引き出させ、ひと群れずつ尋問する。みな高定の部下だと答えるので、縄を解き放してやった。翌日、今度は本当の高定の部下を引き出し、これも縄を解いてやった揚げ句、酒まで振る舞う。

諸葛亮は彼らの中に立ち交じり、汝(なんじ)らの主人の高定は雍闓や朱褒に騙されているのだと言って聞かせる。

その証拠に雍闓から密使が来ており、所領の安全と恩賞を約束してもらえるなら、いつでも高定と朱褒の首を持ってくると告げて帰ったのだとも。

(08)益州の南部 高定の本営

単純な南蛮兵は放されて自分たちの陣地へ帰ると、みな諸葛亮の寛大を褒めちぎる。さらに主人の高定にも、雍闓に油断なさってはいけませんと忠告した。

高定も疑いを抱き、密かに雍闓の陣中へ人を遣り様子をうかがわせる。するとそこでも雍闓の部下は、寄ると触ると諸葛亮を褒めていたという。

高定は念のため腹心の者を遣り、諸葛亮の陣中も探らせる。ところが、その男は途中で蜀の伏兵に見つかってしまい、諸葛亮の前に引かれていった。

(09)益州の南部 諸葛亮の本営

諸葛亮は男をひと目見て言う。

「いや、そちはいつぞや雍闓の使いに来た男ではないか。その後、待ちに待っておるに、沙汰のないのはいかがしたものだ。疾く帰って、主人の雍闓に吉左右(きっそう)を相待ちおると申し伝えい」

そして一通の書簡をしたため男に託すと、部下に命じ危険のない地点まで送っていかせた。

(10)益州の南部 高定の本営

こうして帰ってきた腹心の男は高定に子細を話し、諸葛亮が託した手紙を差し出す。

高定は手紙を見て驚く。

「高定と朱褒の首を取って降伏を誓うなら、蜀の天子(てんし)に奏し重き恩賞を贈らん」という意味に加え、それを一刻も早くにと督励している催促状である。

高定は大きくうめき考え込んだが、やがて部将の鄂煥を呼び手紙を見せ、息荒く相談した。鄂煥は高定より神経が粗い。たちまち牙をむいて憤慨する。

「こういう証拠がある以上、何も迷っていることはない。なお万一を顧慮されるなら、陣中に一宴を設け、試しに雍闓を招いてご覧なさい。彼が公明正大ならやってくるでしょうし、邪心があれば二の足を踏んで来ないでしょう」

鄂煥は第二案として、こうも勧めた。

「もし雍闓が来なかったら彼奴の二心は明白です。今宵の夜半に不意討ちをお掛けください。手前は別軍をひきいて敵陣の後ろを襲いますから」

ついに高定は意を決し、鄂煥の進言どおりに運ぶ。案の定、雍闓は軍議を口実にしてやってこない。

(11)益州の南部 雍闓の本営

高定は夜襲を決行。雍闓にとってはまったく寝耳に水である。おまけに雍闓の部下たちは、先ごろから何となく怠戦気分であったうえ、中には高定の兵と一緒になってその壊乱を内部から助けた者も出た。

雍闓は一戦の支えも立たず、ただ一騎で遁走(とんそう)しようとする。しかし裏門へ掛かっていた鄂煥はたちまち得意の戟を舞わせ、一撃の下に雍闓の首を挙げてしまう。

(12)益州の南部 諸葛亮の本営

夜明けとともに、高定は雍闓の首を携え諸葛亮の陣へ降った。ところが諸葛亮は首を実検(討ち取った敵の首が本物かどうか調べること)すると、「この曲者を斬り捨てろ」と命ずる。

高定が仰天して哀号すると、諸葛亮は箱の中から一封の書簡を取り出し、「これを見よ!」と投げやった。見るとまぎれもない朱褒の手跡。彼はもう逆上していて、それを読む手も震えてばかりいる。

諸葛亮が言った。

「よく見たがよい。朱褒の書中にも、高定と雍闓とは刎頸(ふんけい)の友ゆえ油断あるなと忠告してあろうが。それをもってもこの首の偽首なること、また、汝の降伏が雍闓と示し合わせた謀計ということも推察がつく」

「かく言えばなぜ朱褒の片言のみを信ずるかと、汝はさらに抗弁するかもしれぬが、朱褒が降伏を乞うことはすでに再三ではない。ただ、まだ彼は自分を証拠立てる功がないため焦っておるだけにすぎぬ」

聞くと高定は歯をかみ、躍り上がって叫ぶ。数日の命を貸してほしいと。朱褒の首を引っ提げて身の証しを立て、しかる後に正当なご処分を受けるとも。

諸葛亮が励ましてこれを許すと、3日ほどして高定が、前にも勝る手勢を連れ軍門へ帰ってくる。高定は朱褒の首を置いて言う。

「これは偽首ではございませんぞ。よく目を開いてご覧ください」

諸葛亮はひと目見るとすぐに、「しかり、しかり」と膝(ひざ)を叩(たた)いた。さらにこう言って一笑し、高定の労をねぎらった。

「前の首も雍闓に相違ないよ。わしはきみに大功を立てさせたいために、あのような一時の放言をなしたのだ。悪く思わないでくれ」

ほどなく高定は益州3郡(建寧・牂牁・越嶲)の「太守」に任ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)によると、確かに雍闓・朱褒・高定の3人は蜀に背いていますが、これは蜀の建興3(225)年より前から続いていたこと。

なので、この第263話で描かれたやり取りは『演義』の創作が主だと思います。話としてはまずまずでしたが、そういう事情からコメントしにくいですね。

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