葫蘆谷(ころこく)で司馬懿(しばい)父子を討ち漏らしたものの、渭水(いすい)における大勝利に蜀軍(しょくぐん)は沸いていた。
その後、魏蜀(ぎしょく)両陣営ともに不穏な空気が流れだす。魏は司馬懿の消極的な姿勢への不満が、蜀は魏延(ぎえん)の諸葛亮への不満が、それぞれ高まってきたものだった。諸葛亮は五丈原(ごじょうげん)へ陣を移すと、司馬懿のもとに使者を遣わす。
第307話の展開とポイント
(01)渭南(いなん) 諸葛亮の本営
みな蜀軍の勝ちを、あくまで大勝と喜んでいたが、ひとり諸葛亮の胸には、遺憾やるかたないものが包まれていた。加うるに、ひとまず彼が自軍を渭南の陣にまとめた後、陣中しきりに不穏の空気がある。
ただしてみると、魏延が非常に怒っているという。諸葛亮は彼を呼び、何が不平なのかと尋ねる。
包まずに言うよう促されると、魏延は葫蘆谷でのことを話した。
「幸いにもあのとき、大雨が降り注いできたからよいようなものの、もしあの雨がなかったら、魏延の一命はどうなっておりましょう? それがしも司馬懿父子とともに、焼き殺されるほかはありませんでした」
「思うに丞相(じょうしょう。諸葛亮)はそれがしを憎しみ、司馬懿と一緒に焼き殺さんと計られたのでありましょう」
すると諸葛亮は怪しからんと、馬岱(ばたい)のことを非難する。必ずさような手違いのないようにと、火を掛けるにも、合図をなすにも、すべてを馬岱に命じてあったはずだと。
諸葛亮の怒りのほうが、むしろ甚だしいほどだったので、魏延もやや意外に打たれる。
馬岱は諸葛亮に呼びつけられて、面罵された。そのうえ衣を剝がれ、杖(じょう)50の刑を受ける。職についても一軍の大将から、一組の小頭(こがしら)に貶(おと)されてしまう。
★『三国志演義(7)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第103回)では、ここにあるような諸葛亮と魏延とのやり取りや、馬岱への処分の話は見えない。
(02)渭南 馬岱の軍営
自陣へ戻ると、馬岱は士卒に顔も見せず、痛涙悲憤していた。すると夜に入り、諸葛亮の側近の樊建(はんけん)が、そっと訪ねてきてなだめる。
「まったくは、やはり魏延をお除きになるお心だったが、不幸、大雨のために司馬懿をも取り逃がし、彼を亡き者にする計画も果たされなかったのだ」
「とはいえ、いま魏延に背かれては蜀軍の崩壊になる。そのため何の科(とが)もない貴公に恥と汚名を着せたが、これも蜀のためと、目をふさいでくれよとの丞相のお言葉だ」
「どうかこらえてください。その代わりに他日、この功を第一の徳とし、諸人に向かい、必ずこれに百倍する叙勲をもって、貴下(あなた)の恥をそそぐであろうと約されておられる」
そう聞くと馬岱は口惜しさも解け、むしろ諸葛亮の苦衷が思いやられた。
★井波『三国志演義(7)』(第103回)では、ここにあるような樊建と馬岱とのやり取りも見えない。
(03)渭南 諸葛亮の本営
意地の悪い魏延は、馬岱が平部将に貶されたのを見てやろうとするもののように、「馬岱を私の部下に頂きたい」と申し入れた。
諸葛亮は許さなかったが、今はその足元をも見透かしている魏延なので、「どうしても」と強情を張り通す。それを聞いた馬岱は、進んで魏延の部下になった。もちろん堪忍に堪忍をしてのことである。
★井波『三国志演義(7)』(第103回)では、ここにあるような魏延や馬岱がらみのやり取りも見えない。
(04)渭水 司馬懿の本営
一方、その後の魏軍にも、多少穏やかならぬ空気が内在していた。ここにも、残念だ、無念だ、という声がしきりにある。
もちろん、それはたび重なる大敗から来た蜀軍への敵愾心(てきがいしん)であって、内部的な抗争や司馬懿に対する怨嗟(えんさ)ではない。しかし、怨嗟はないまでも不平はあった。今や満々たる不満がみなぎっていた。
なぜかといえば、以後またも高札を掲げ、「一兵たりと、既定の陣線から出た者は斬る。また、陣中に激語を弄し、みだりに敵に戦いを挑む者も斬罪に処さん」という徹底的な防御主義、消極作戦の軍法が、彼らの行動を一切制圧していたからだ。
渭水の氷は解けても、陽春百日、両軍は依然として対陣のままだった。
あるとき郭淮(かくわい)が来て語る。
「それがしの観たところ、どうも諸葛亮はもう一歩出て、さらにほかへ転陣を策しておるように考えられますが……」
司馬懿は同意したうえ、珍しくこのような意見を漏らす。
「もし孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)が、斜谷(やこく)や祁山(きざん)の兵をこぞって武功(ぶこう)に出て、山に依って東進するようだったら憂うべきだが、西して五丈原へ出れば憂いはない」
さすがに司馬懿は慧眼(けいがん)だった。彼がこの言をなしてから日ならずして、蜀軍は果然、移動を開始する。しかも選んだ地は、武功ではなく五丈原だった。
武功は今の陝西省(せんせいしょう)武功に属する地方である。司馬懿の観るところ、もし孔明がこれへ出てきたら、一挙玉砕か、一挙大勝かの大勇猛心の表現であり、魏軍にとっても容易ならぬ構えが要るものと、密かに恐れていたのである。
だが諸葛亮は冒険を避けて、なお持久長攻に便な五丈原へ移った。
五丈原は宝鶏県(ほうけいけん)の東南35里、ここも千里をうねる渭水の南にある。そして従来の数次の陣地に比べると、遥かに遠く出て、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)に突出している。
ここまで来ると、長安(ちょうあん)も潼関(どうかん)も、また敵国の都の洛陽(らくよう)も、一鞭(いちべん)すでに指呼の内だ。
さらに司馬懿が額をなでて喜悦したわけは、持久戦をもって対するならば、彼にも自信があったからである。
ただ困るのは、大局の見通しを持たぬ麾下(きか)が、ややもすると彼を軽んじて、「卑怯(ひきょう)な総帥、臆病な都督(ととく)」とあげつらい、陣中の紀綱(掟〈おきて〉)を乱しがちなことだった。
ために司馬懿は、わざと朝廷に上表して戦いを乞う。朝廷は再度、辛毘(しんび。辛毗)を前線に差し向け、「堅守自重。ただそれ、守るに努めよ」と、重ねて全軍を戒めた。
(05)五丈原 諸葛亮の本営
諸葛亮は五丈原へ陣を移してからも、種々(さまざま)に心を砕いて敵を誘導してみたが、魏軍はまったく動きを見せない。
敵国の地深くへ進み出ながら、彼がなお自ら軍勢を引っ提げて戦わずに、ひたすら魏軍の妄動を誘う消極戦法を固持している理由は、実にその兵力と装備の差にあった。
後方から補充をなすに地の利を得ている魏の陣営は、動かざる間にも、驚くべき兵力を逐次加えており、今では諸葛亮の観るところ、蜀の全軍の8倍に達する大兵を結集しているものと思われていたのである。
その量と実力に当たる寡兵の蜀陣としては、「誘ってこれを近きに討つ」。この一手しか断じてほかに策はなかったのだ。
しかも、魏はその一活路すら看破している。さすがの諸葛亮も、まったく無反応な辛抱強い敵に対しては計の施しようもなかった。
ある日、諸葛亮は一使を選んで、自筆の書簡と美しい牛皮の箱を託し、司馬懿に渡してくるよう命ずる。
(06)渭水 司馬懿の本営
使者は輿に乗って魏陣へ臨む。輿に乗って通る者は射ず討たず、ということは戦陣の作法になっている。
司馬懿がまず箱を開いてみると、中から艶(あで)やかな巾幗(きんかく)と縞衣(こうい)が出てきた。
司馬懿の唇を包んでいる疎々たる白髯(はくぜん)は震えていた。明らかに赫怒(かくど。怒るさま)している。だがなお、それを手にしたままジッと見ていた。
巾幗というのは、まだ笄(こうがい。簪〈かんざし〉)を簪(かざ)す妙齢にもならない少女が髪を飾る布であり、蜀人は曇籠蓋(どんろうがい)ともいう。また、縞衣は女服である。
との謎を解くならば、挑めども応ぜず、ただ塁壁を堅くして、少しも出てこない司馬懿は、あたかも羞恥(しゅうち)を深く隠して、ひたすら外気を恐れ、家の内でばかり嬌(きょう。美しさ)誇っている婦人のごときものである、と揶揄(やゆ)しているとしか考えられない。
次に彼は書簡を開く。やはり心の内で解いた謎は当たっている。諸葛亮の文辞は、司馬懿の灰のごとき感情も烈火となすに十分だった。
「ははははは。おもしろい」
やがて司馬懿の唇が漏らしたものは、内心の憤怒とは正反対な笑い声。贈られた品物を納めて使者をねぎらい、酒を供して座間に尋ねる。
「孔明はよく眠るかの?」
いやしくも自分の仕える諸葛亮のうわさとなると、軍使は杯を下に置き、ひと言の答えにも身を正して言った。
「はい。わが諸葛公にはつとに起き、夜は夜半に寝(い)ね、軍中のお務めに倦(う)むご様子も見えません」
「賞罰は?」と司馬懿。
「至ってお厳しゅうございます。罰20(鞭〈むち〉打ち20回)以上は、みな自ら裁決なさっておられます」と軍使。
「朝暮の食事は?」と司馬懿。
「お食はごく少なく、一日に数升(わが国における現代の数升とは異なる)を召し上がるにすぎません」と軍使。
「ほ。それでよくあの身神が続くものだの」と司馬懿。
そこではさも感服したような態だったが、使者が帰ると左右の者に言った。
「孔明の命は久しくあるまい。あの激務と心労に煩わされながら、微量な食物しか摂っていないところを見ると、あるいはもう幾分は弱っているのかもしれない」
(07)五丈原 諸葛亮の本営
魏陣から帰ってきた使者に向かい、諸葛亮は敵営の様子と司馬懿の反応をただしていた。
のち諸葛亮は大いに嘆ずる。
「我をよく知ること、敵の仲達(ちゅうたつ。司馬懿のあざな)に勝る者はいない。彼はわが命数まで量っている」
時に楊喬(ようきょう)という主簿(しゅぼ)の一員が進み出て、意見を呈した。
★楊喬は、正史『三国志』や『三国志演義』では楊顒(ようぎょう)。
「例えば、一家の営みを見ましても、奴婢(ぬひ)がおれば、奴(男の召し使い)は出でて田を耕し、婢(女の召し使い)は内にあって粟(アワ)を炊(かし)ぐ」
「鶏は晨(あした。朝)を告げ、犬は盗人の番をし、牛は重きを負い、馬は遠きに行く。みな、その職と分でありましょう」
「また家の主は、それらを督して家業を見、租税を怠らず、子弟を教育し、妻はこれを内助して、家の清掃や一家の和、かりそめにも家に瑕瑾(かきん)なからしめ、夫に後顧のないようにいたしております」
「かくてこそ一家は円滑に、その営みはよく治まってまいりますが、仮に家の主が、奴ともなり婢ともなり、ひとりですべてをなそうとしたらどうなりましょう? 体は疲れ、気根は衰え、やがて家滅ぶの因(もと)となります」
「主は従容として、時には枕を高うし、心を広く持ち、よく身を養い、内外を見ておればよいのです。決してそれは、奴婢や鶏犬に及ばないからではなく、主の分を破り、家の法に背くからです」
「『坐(ざ)シテ道ヲ論ズ之(これ)ヲ三公ト言イ、作(た)ッテ之ヲ行ウ(実行に携わる者)ヲ士大夫ト謂(い)ウ』と古人が申したのも、その理ではございますまいか」
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『坐シテ道ヲ論ズ之ヲ三公ト言イ……』は)『周礼(しゅらい)』冬官考工記に基づく格言」だという。
諸葛亮は瞑目(めいもく)して聞いていた。なお楊喬は続ける。
「しかるに、丞相のご日常をうかがっておりますと、細やかな指示にも、余人に命じておけばよいことも、大小となく自らあそばして、終日汗をたたえられ、真に涼やかに身神をお休めになる閑(ひま)もないようにお見受けいたします」
「かくてはいかなるご根気も倦み疲れ、とうてい神気の続く謂(い)われはございません。ましてやようやく夏に入り、日々この炎暑では、何でお体がたまりましょう」
「どうかもう少し暢(のび)やかに、まれにはおくつろぎくださることこそ、我々麾下の者もかえって喜ばしくこそ思え、毛頭、丞相の懈怠(けたい)なりなどとは思いも寄りませぬ」
諸葛亮は涙を流し、部下の温情を謝して、こう答えた。
「予もそれに気づかないわけではないが、ただ先帝(劉備〈りゅうび〉)の重恩を思い、蜀中にある孤君の御行く末を考えると、眠りに就いても寝ていられない心地がしてまいる」
「かつは、人間にも自ら定まれる天寿というものがあるので、何とぞわが一命のあるうちにと、つい悠久な時を忘れて人命の短きに焦るために、人手よりはわが手で務め、先にと思うことも、今のうちにと急ぐようになる」
「けれどお前たちに心配させてはなるまいから、これからは予も折々には閑(かん)を愛し、身の養生にも努めることにしよう」
諸人もそれを聞き、みな粛然と暗涙を吞んだ。
だが、このときすでに、身に病の起こってきた予感は、諸葛亮自身が誰よりもよく悟っていたに違いない。まもなく彼の容体は常ならぬもののように見えた。
管理人「かぶらがわ」より
一軍の大将の職から貶された馬岱を、部下に欲しいと言い張る魏延。武功ではなく、五丈原へ出ることを選んだ諸葛亮。女衣と巾幗を贈られても笑い、かえって諸葛亮の命数を量る司馬懿。
後半部分は、諸葛亮の劉備への想い、そして劉禅(りゅうぜん)への想いが強くうかがえた第307話でした。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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