吉川『三国志』の考察 第225話「漢中王に昇る(かんちゅうおうにのぼる)」

曹操軍(そうそうぐん)を漢中(かんちゅう)から退けた劉備(りゅうび)の版図は、今や一大強国と呼ぶにふさわしい広さとなる。

そこで諸葛亮(しょかつりょう)をはじめとする群臣は、劉備に漢中王(かんちゅうおう)の位に即くよう繰り返し勧めるが、なかなかよい返事がもらえない。しかし、ついに劉備も覚悟を固め――。

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第225話の展開とポイント

(01)漢中

魏(ぎ)の勢力が全面的に後退すると当然、蜀軍(しょくぐん)がこの地方を風靡(ふうび)した。上庸(じょうよう)も陥ち、金城(きんじょう)も降る。申耽(しんたん)や申儀(しんぎ)などの旧漢中の豪将たちも、みな降人となって出た。

劉備は布告を発し、よく軍民の一致を得、政治・軍事・経済の三面にわたって画期的な基礎を築いた。

こうして彼の領有は一躍、四川(しせん)や漢川(かんせん)の広大な地域をみるに至り、今や蜀というものは、江南(こうなん)の呉(ご)、北方の魏に対しても断然、端倪(たんげい)すべからざる一大強国をなした。

諸葛亮は諸臣を代表して法正(ほうせい)を伴うと、改まって劉備に目通りする。そして漢中王の位に即くよう勧めた。

しかし、劉備は容易に肯んじない。

いかに臣下や両川(りょうせん。東川〈とうせん〉と西川〈せいせん〉。漢中と蜀)の民が望んでも、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)から勅命がない以上は、自称し僭称(せんしょう)するものである。そういうことは私は嫌いだと言い、あくまで退けた。

それでも諸葛亮以下、法正・張飛(ちょうひ)・趙雲(ちょううん)もたびたび進言し、劉備の積極性を促す。ついには彼も許容することになり、文官の譙周(しょうしゅう)が表を作った。使いは許都(きょと)の天子に表を呈し、劉備が漢中王に即くことを正式に奏した。

建安(けんあん)24(219)年の秋7月、沔陽(べんよう)に式殿と九重の壇を築き、五色の幡旗(ばんき。旗や幟〈のぼり〉)を連ね、群臣参列のうえで即位の典は挙げられた。

同時に嫡子の劉禅(りゅうぜん)が王太子に立てられ、許靖(きょせい)をその太傅(たいふ)とし、法正は尚書令(しょうしょれい)に任ぜられた。

許靖は劉禅の太傅(太子太傅)に任ぜられたように見えるが、史実では太傅に任ぜられていた。太傅は天子を、太子太傅は太子を、それぞれ善導する。

軍師の諸葛亮がすべての兵務を総督し、その下に関羽(かんう)・張飛・馬超(ばちょう)・黄忠(こうちゅう)・趙雲の五将をもって、五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)となす旨も発布。魏延(ぎえん)は漢中太守(かんちゅうたいしゅ)に任ぜられた。

五虎大将軍について、『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第73回)では五虎大将となっていた。

即位後、劉備は再び表をもって、この趣を天子に奏した。先に許都へ捧げた表は、諸葛亮以下、蜀臣120人が連署して奉上したものであり、後の表は、劉備自身がしたためたものである。表はいずれも長文で、辞句荘重を極めていた。

朝廷はその秋ただちに、劉備に対して、漢中王領大司馬(かんちゅうおう・りょうだいしば)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を贈った。

劉備に(漢中王領大司馬の)印綬が贈られたいう話は解せない。曹操の勢力下にあった献帝に、このようなことができたとは思えないので……。

(02)鄴都(ぎょうと)

劉備が漢中王を称したと聞き、大きな衝撃を受ける曹操。

井波『三国志演義(5)』の訳者注によると、「(ここで曹操が鄴都にいたというのは)長安(ちょうあん)にいたの誤り」だという。

大議事堂に満つる群臣の中から、司馬懿(しばい)が立って諫言する。

「否とよ大王。いったんのお怒りに駆らるるは上乗にあらず。すべからく蜀の内部に衰乱の兆すを待って、大挙、軍を向けたまえ」

曹操は、それもよかろうと言うが、なお計を聴く。

司馬懿は、呉へ使いを立て、呉が荊州(けいしゅう)を攻めるなら、魏は呼応して助け、また劉備の側面を突こう、と勧めるよう言う。

曹操は進言を容れ、使者として満寵(まんちょう)を選ぶ。満寵はたびたび呉へ行っており、外交官としての聞こえがあった。

(03)建業(けんぎょう)

呉の孫権(そんけん)も遠く魏蜀の大勢を眺め、呉の将来も、決して今日の安泰を、明日の安泰としていられないものを自覚していた。魏使が着いたと聞くと、張昭(ちょうしょう)の意見に従い、会うことにする。

満寵は、ここ数年の魏呉の戦いの結果、利を得た者は蜀の劉備だったと言う。

そして、魏王(曹操)は呉と長く唇歯の誼(よしみ)を結び、ともに劉備を討たんという意思を抱いていると伝え、携えてきた書簡を呈する。

やがて満寵は、歓迎の宴から客館へ退がったが、呉宮の殿堂は深更(深夜)まで緊張を呈していた。重臣はみな残り、孫権を中心に、魏の申し出にどう答えるかと、修好不可侵条約の求めに対して、検討と評議にかかったのである。

顧雍(こよう)の説はこうだった。

「もちろん魏の大望は、天下を統一して魏一国となすにあるので、これは曹操の偽りに決まっている。さればと言って明らかに申し出を拒み、魏の重圧を一方に引き受け、蜀の立場を有利にさせ、呉の兵馬を消耗(実は『しょうこう』が正しい読みで、『しょうもう』は慣用読み)してはおもしろくない」

そのほか有力な呉人の国際観も、たいがい同じ見解を持っていた。要するに不和不戦。なるべく魏との正面衝突は避け、ほかをもって戦わせ、その間にいよいよ国力を充実し、立つ機会を十分にうかがうべし、という意見である。

諸葛瑾(しょかつきん)も一策を唱えた。

「ひとまず満寵はお帰しになり、改めて呉からも、一使を魏に派遣されてはいかがですか? その間に別の使者を荊州へも送るのです。いま荊州の守りは例の関羽ですが、わが君より彼に書簡を遣わし、大勢を説いて呉に協力させます」

「もし彼が承知して、呉に与(くみ)するなら、断然、魏を拒んで曹操と一戦をなすも、決して敗れるものではありません」

張昭が「もし関羽が断ったら?」と尋ねると、諸葛瑾は答えた。

「そのときは、ただちに魏の申し入れを容れ、相携えて荊州を攻め取るばかり」

さらに諸葛瑾は、協力を取り付けるため、関羽の娘を呉の世子に迎えたいと言ってやるよう勧める。

孫権はこの案にうなずき、諸葛瑾を荊州へ遣わすことにした。一方で魏へも使いを立て、まず双方の機変を打診してみたうえで、呉の態度を決めようと考えた。

翌日、孫権は満寵にしかるべき礼物と答書を与え、魏へ送り帰した。魏の船が出ると、すぐ後から諸葛瑾の船が出た。

(04)荊州(江陵〈こうりょう〉?)

関羽は呉の使者として諸葛瑾が来たと聞くと、出迎えもせずに悠然と待って対面した。さっそく諸葛瑾は、お娘御を、呉の世子に嫁がせるお心はありませんかと尋ねる。

「ないなあ、そんな気は――」と、にべなく答える関羽。

諸葛瑾が重ねて「なぜですか?」と畳みかけると、関羽は勃然と、髯(ひげ)の中から口を開いて言った。

「なぜかって? 犬ころの子に、虎の娘を誰がやるかっ!」

諸葛瑾は首をすくめる。それ以上、口を開くと、たちまち関羽の剣が鞘(さや)を脱してきそうな鬼気を感じたからだった。

管理人「かぶらがわ」より

魏王曹操に対抗し、漢中王を称する劉備。こうなると、孫権の呉侯(ごこう)ではかなり見劣りする感じが――。

ほぼ勢力が三分された状況では、一者がほかの二者を争わせ、その隙を突こうとするのは当然のこと。諸葛瑾はこういう役が多いですけど、関羽はいつもの関羽でした。

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