劉表(りゅうひょう)は襄陽(じょうよう)に劉備(りゅうび)を招くと、老齢多病の自分に代わり、荊州(けいしゅう)の統治を引き受けてもらえないかと頼む。
同席していた諸葛亮(しょかつりょう)も目くばせで承諾を促すが、あくまで劉備は受けようとしない。そして劉備らが旅館に戻ったところ、劉表の長男の劉琦(りゅうき)が訪ねてくる。
第137話の展開とポイント
(01)江夏(こうか)
孫権軍(そんけんぐん)は勢いに乗り、水陸から江夏城へ迫る。この地に詳しい甘寧(かんねい)が真っ先に駆け入り、東門の門外数里で黄祖(こうそ)を待ち伏せた。
やがて城から黒煙が上がり、望閣楼殿がすべて炎と化したころ、黄祖は散々に討ち崩され、わずか20騎ばかりで東門から駆け出してくる。すると道の傍らから現れた5、6騎が、不意に横へわめきかかった。
先手を取られた甘寧が見ると、呉(ご)の宿将の程普(ていふ)とその家臣たち。出遅れた甘寧はあわてて腰の鉄弓をつかみ取り、一矢を放つ。矢は見事に黄祖の背を射、程普とともに駆け寄って首を挙げた。
孫権は黄祖の首をなげうち、箱に入れて本国へ送らせる。蘇飛(そひ)の首とふたつそろえ、父の墳墓を祭るであろうと。
諸軍に恩賞を分かち本国へ引き揚げることになったが、功が大きい甘寧を都尉(とい)に任じ、江夏城へ若干の兵を残そうとした。
このとき張昭(ちょうしょう)が兵を残すことに反対。江夏を囮(おとり)にして劉表を誘うという一計を献ずる。孫権も同意し占領地をすべて放棄。総軍は凱歌(がいか)を兵船に盛り、きれいに呉の本国へ帰った。
(02)呉城
檻車(かんしゃ)に放り込まれ、先に呉へ護送されていた蘇飛。孫権の軍勢が凱旋したことを人づてに聞き、ふと甘寧との旧誼(きゅうぎ)を思い出す。そこで書面をしたため、密かにその手渡しを人に頼んだ。
★蘇飛が甘寧を助けたことについては、前の第136話(02)を参照。
凱旋の直後、孫権は父兄の墳墓に戦勝を報告。功臣とともに宴を張っていると、甘寧が頓首(頭を地面に打ちつけて礼をすること)して蘇飛の助命を訴える。
孫権は、蘇飛を助けたらまた逃げて、呉へ仇(あだ)をするだろうと言うが、甘寧は首に誓ってそのようなことはさせないと応じた。
そこで助命を認めたうえ、甘寧の手引きに功があった呂蒙(りょもう)を横野中郎将(おうやちゅうろうしょう)に任ずる。
ところがこの宴席で、凌統(りょうとう。淩統)が剣を払い甘寧に跳びかかる。建安(けんあん)8(203)年の黄祖との戦において、父の凌操(りょうそう。淩操)は大功を立てたものの、そのころ黄祖の配下だった甘寧に射殺されていた。
孫権は自ら凌統を抱き止めて叱りつけるが、その心事を聞くと、無礼を働いたことはとがめず。
孫権は凌統を承烈都尉(じょうれつとい)に任ずる一方、甘寧には兵船100隻と江兵5千を預け、夏口(かこう)の守りを命ずる。凌統の宿怨を自然に忘れさせるためだった。
呉は水軍の編制に力を入れ、造船技術も急激な進歩を見せる。大船を盛んに建造して鄱陽湖(はようこ)に集め、周瑜(しゅうゆ)が水軍大都督(すいぐんだいととく)となり猛演習を続けていた。
また、孫権自身も叔父の孫静(そんせい)に呉会(ごかい)の守りを託し、鄱陽湖に近い柴桑郡(さいそうぐん)まで本営を進める。
★『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「(呉会は)地名。両説あって、呉郡すなわち今の蘇州(そしゅう)を指すという説(『通鑑〈つがん〉』巻65、建安12年条、胡三省〈こさんせい〉の注)と、呉郡と会稽郡(かいけいぐん)の二郡を指すとの説(清〈しん〉の銭大昕〈せんたいきん〉の説、『通鑑注弁正』に見える)」があるという。また「ここ(『三国志演義』〈第29回〉)は前の説によって解すべきである」ともいう。
★ここで柴桑郡とあったが、柴桑は揚州(ようしゅう。楊州)の豫章郡(よしょうぐん)に属する県名である。
(03)新野(しんや)
そのころ、新野の劉備はすでに諸葛亮を迎え、将来の計に対し準備を怠っていなかった。そこへ荊州の劉表の急使が着き、一大事があると伝える。劉備は荊州へ行くべきか迷っていたが、諸葛亮の意見に従い行くことにした。
(04)荊州(襄陽)
劉備は供の兵500と張飛(ちょうひ)を城外に待たせ、諸葛亮とふたりだけで登城。劉表は先の襄陽の会で難儀をかけたことを詫びた後、江夏の敗北と黄祖の戦死に触れた。
★劉備の襄陽の会における難儀については、先の第123話(03)を参照。
さらに、自身が老齢に入って多病であるため、この難局にあたれそうにないと言い、荊州の統治を託そうとする。諸葛亮はしきりと目くばせしたが、劉備は引き受けようとせず、劉表を励まして退出した。
(05)襄陽 劉備の旅館
劉表の長男の劉琦が劉備を訪ねてくる。堂に迎え来意を聞くと、劉琦は涙を浮かべ、継母の蔡氏(さいし)に殺されそうになっていると訴え、助けを乞うた。
劉備は良い思案がないか尋ねるが、諸葛亮は冷然と顔を横に振り、「一家の内事、我々の知ることではありません」と答える。
劉琦は悄然(しょうぜん)と帰るしかなかったが、劉備は気の毒そうに見送り、その際に一計を伝えた。
翌日、劉備は腹痛を理由に、諸葛亮に劉琦への回礼を頼む。
(06)襄陽 劉琦邸
諸葛亮は挨拶を済ませてすぐに帰ろうとしたが、劉琦が礼を厚くして酒を勧めるので、帰ろうにも帰れなかった。
酒が半酣(はんかん)のころ、劉琦は、ぜひご一覧に供えて教えを仰ぎたい古書があると言い、諸葛亮を閣の上へ誘う。しかしそこに書物などなく、諸葛亮は不審な顔をした。
すると劉琦は足元にひざまずき、涙を垂れながら百拝して保命の良計を乞う。諸葛亮が袂(たもと)を払い閣から下りようとすると、いつの間にか梯(かけはし)が外してある。
それでも劉琦がいくら懇願しても、諸葛亮は何の助言もしようとしない。
だが劉琦が不意に剣を抜き、自分の手で頸(くび)を刎(は)ねようとすると、諸葛亮は急に押しとどめた。ここで春秋(しゅんじゅう)時代の話を持ち出し、晋(しん)の献公(けんこう)の息子である申生(しんせい)と重耳(ちょうじ)の処世を説く。
★ここで出てきた例話の詳細は省くが、概要は以下の通り。献公の第二夫人の驪姫(りき)が、自分の生んだ子を跡継ぎにしようと謀計を巡らせる。兄の申生が彼女の謀計にはまり、父(献公)に殺されてしまうと、弟の重耳は国外へ逃れた。そして19年後、初めて世に出た晋の文公(ぶんこう)こそ重耳だったという話。
諸葛亮は、望んで江夏の守りに就けば、継母の禍いから逃れられるだろうと勧める。重耳が国を出て、身の難を逃れたのと同じ結果が得られるだろうとも。
(07)襄陽
まもなく劉備は再び劉表に呼ばれて登城する。そこで、急に劉琦が江夏の守りに遣ってほしいと言いだした、との相談を受けると、しごく結構だと賛成。公(劉表)と御嫡子(劉琦)には東南の防ぎをお図りいただき、自分は西北の防ぎにあたると言い、劉表を安心させてから新野へ帰った。
管理人「かぶらがわ」より
蔡氏と蔡瑁(さいぼう)から執拗(しつよう)に命を狙われ続ける劉琦。このあたり、彼は劉備と似たような立場だったのですね。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
Yahoo!ショッピングで探す 楽天市場で探す Amazonで探す
記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます