吉川『三国志』の考察 第069話 「梅酸・夏の陣(ばいさん・なつのじん)」

198年4月、曹操(そうそう)は再び大軍をひきい、先に敗北を喫した宛城(えんじょう)の張繡(ちょうしゅう)討伐へ向かう。

行軍は夏の5月から6月にかかり、伏牛(ふくぎゅう)山脈を越える難路では一滴の水さえ見当たらず、多くの兵士が倒れる。この状況を見た曹操(そうそう)は兵士たちの前であることを叫ぶ。

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第069話の展開とポイント

(01)許都(きょと)

年が明け建安(けんあん)3(198)年の正月、曹操(そうそう)は朝廷に参内し献帝(けんてい)に拝謁。賀を述べた後、「今年もまた西へ征旅に赴かねばなりますまい」と言った。

その年の4月、丞相府(じょうしょうふ)の大令が発せられると一夜にして張繡(ちょうしゅう)討伐の大軍が西方へと動きだす。献帝自ら鑾駕(らんが。天子〈てんし〉の車)を促し曹操を外門の大路まで見送った。

(02)行軍中の曹操

大軍が許都の郊外から田舎道へ流れていくと、麦畑で働いていた百姓は恐れてわれがちに逃げ隠れる。

この様子を眺めていた曹操は村長(むらおさ)や百姓らを呼び、田畑を踏み荒らすことのないよう軍令を発してあると伝える。

また、村々で寸財の物でも掠(かす)め取る兵士がいたら、すぐ訴え出るようにとも言う。これを伝え聞くと、村老野娘(やじょう)も畑にありながら安心して軍隊を見送った。

ところが、曹操の乗馬が野鳩(ノバト)の羽音に驚き急に跳ね上がり、麦畑に狂い込んで麦を損ねてしまう。

曹操は全軍に止まるよう命じて行軍主簿(こうぐんしゅぼ)を呼ぶと、自ら軍令を破ったのでこの場で自害すると言いだす。

諸将が『春秋(しゅんじゅう)』にある「法は尊きに加えず」という語を持ち出し、自害は思いとどまるよう言うと曹操も納得。短剣で自分の髪を切って断罪の義に代え、法に服した証しとした。

行軍は5月から6月にかかる。わけて河南(かなん)の伏牛(ふくぎゅう)山脈を越える山路の難行はひと通りでない。一滴の水さえ見当たらず多くの兵士が倒れた。

すると曹操が突然、馬上から鞭(むち)を指し、「この山を越えると梅の林がある!」と叫ぶ。兵士たちは無意識のうちに梅の酸っぱい味を想像し、口中に唾(つば)を湧かせ渇を忘れてしまった。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第17回)では、ここにある梅林のエピソードは見えない。

(03)南陽(なんよう) 宛城(えんじょう)

伏牛山脈を越えてくる黄塵(こうじん)が見えると張繡はうろたえる。それでも荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)に援軍を求める早打ちを立て、軍師(ぐんし)の賈詡(かく)を城に留めると自ら防ぎに出た。

だが、配下の勇士の張先(ちょうせん)が真っ先に曹操配下の許褚(きょちょ)に討たれたのを始めとして一敗地にまみれてしまい、たちまち宛城へ逃げ込む。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、張繡は張先とともに雷叙(らいじょ)も出撃させていた。吉川『三国志』では雷叙を使っていない。

曹操の大軍は城下に迫り四門を完全に封鎖。攻城と籠城(ろうじょう)の形になる。曹操は西門に兵力を集中し、三日三晩も息もつかずに攻め続けた。

張繡は荊州の援軍が間に合うか心配するが、賈詡は落ち着いており、曹操を生け捕りにするのも難しいことではないと言う。

賈詡は、曹操が城攻めにかかる前に三度も城を巡り、四門の固めを視察していたことを明かす。そして、逆茂木(さかもぎ。鹿角〈ろっかく〉)の柵(さく)が古く、城壁も修理したばかりである東南の巽(たつみ)の門に目を付けたようだと話す。

さらに、東南の巽の門を攻め口と決めているはずの曹操が、翌日から躍起になって西門を攻めているのは偽撃転殺の計だと説く。ただちに賈詡はこの計に備える手はずにかかった。

その夜、曹操は西門を総攻撃するように見せかけ、密かに選りすぐった強兵を巽の門に回し、自ら先頭に立ち城壁に迫っていく。

迎撃に出てくる敵もなく、快笑して壁門の内部へ突入。しかし、その内部も黒々として篝火(かがりび)ひとつ見えない。

ところが、駒を止めて見回したとたん一声の烽火(のろし)が轟(とどろ)く。曹操は虚誘掩殺(きょゆうえんさつ)の計に気づいて退却を命ずるが、すでに遅し。やむなく単騎で鞭打って逃げ走ったものの、この夜、巽の口で討たれた配下は何千か何万か知れなかった。

西門のほうも偽攻を見破られたため張繡に散々に討ち破られ、曹操軍は全線にわたって破たんを来す。このあと五更(ごこう。午前4時前後)のころまで追撃を受けることになった。

夜が明けて日を仰いだころ、城外20里(り)に退き損害を調べると、一夜のうちに味方の戦死者が5万余人も出たことがわかる。

そのうえ荊州の劉表がにわかに兵を動かし、退路を断ち許都を突こうという態勢を取っているとの知らせが届く。曹操は恨みのひと言を敗戦の戦場に吐き捨て、向きを変え許都へ引き返した。

途中まで来ると、いったん劉表は大軍を繰り出そうとしたが、孫策(そんさく)が兵船をそろえて江をさかのぼってくると聞こえたため出兵を迷っているとの知らせが届く。

(04)淯水(いくすい)

襄城(じょうじょう)を過ぎ淯水のほとりに来ると、曹操は馬を止め、昨年この地で戦死した典韋(てんい)のことを悼みだす。

典韋の戦死については先の第64話(04)を参照。

一基の石を河原の小高い土に据え、牛を斬って馬を屠(ほふ)り、典韋の魂魄(こんぱく)を招く祭祀を営む。これに続いて曹昂(そうこう)と曹安民(そうあんみん)の霊も供養した。

曹昂の戦死については先の第64話(05)を参照。

曹安民の戦死については先の第64話(04)を参照。

ここで出てきた安象については、正史『三国志』や『三国志演義』では安衆(あんしゅう)とある。

(05)安象

安象の境まで進むと、劉表と張繡の連合軍が難所をふさいでいた。曹操もまた一方の山に沿って陣を敷く。布陣が日没から夜にわたったのを幸いに、夜通し道もなさそうな山にひと筋の通りを掘らせ、全軍の8割までを山陰(やまかげ)の盆地に隠してしまう。

夜が明けると、曹操軍が思ったより小勢であると見て、劉表と張繡の兵は要害を出て襲撃を仕掛ける。曹操は十分に敵を引きつけたうえ反撃を命じ、度を失って逃げ争った敵兵は要害にも留まれず、山の向こうの安象の街へ逃げ込んだ。

曹操はそのまま安象の県城へ追撃を加えたが、ここでまたも許都の急変が伝えられる。河北(かほく)の袁紹(えんしょう)が大動員を発令したという。大いに驚いた曹操は何物も顧みることなく、昼夜を分かたず許都へと急いだ。

劉表と張繡はそのあわてぶりを見て、今度は逆に追おうとする。賈詡の諫めを聞かずに追撃したところ、途中で屈強な伏兵にぶつかって惨敗の上塗りをしてしまった。

ふたりが懲りた顔をしていると、賈詡は今こそ追撃する機会だと励ます。そこで再び追撃を仕掛けると今度は存分に勝ち、凱歌を上げて帰ることができた。

後でふたりが尋ねると賈詡は、この程度は兵学の初歩の初歩だと笑って答える。一度目の追撃は敵も予想しているため策を授け、強い兵を残して後ろに備えるのが常識の退却法であると。

でも二度目となると、もう追ってくる敵もいないと思い、強兵が前に立ち弱兵が後ろになり自然と気も緩むから、その虚を襲えば必ず勝てると信じたのだと。

管理人「かぶらがわ」より

張繡討伐に失敗する曹操。この第69話では小ネタが数多く拾われていました。曹操が髪を切り首に代えたという話は、元ネタが『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『曹瞞伝(そうまんでん)』のようです。

また、梅の林があると言い兵士たちの喉(のど)の渇きを忘れさせたという話は、『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、元ネタが『世説新語(せせつしんご)』(假譎篇〈かきつへん〉)であるとのことでした。
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