吉川『三国志』の考察 第070話「北客(ほっきゃく)」

またも宛城(えんじょう)の張繡(ちょうしゅう)討伐を果たせず、許都(きょと)に戻ってきた曹操(そうそう)。

そこへ冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)の使節団が到着。北平(ほくへい)の公孫瓚(こうそんさん)との間で国境を巡る争いが起きたことを伝え、兵員や兵糧の援助を求める旨の書簡を差し出す。

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第070話の展開とポイント

(01)許都

許都に帰り着いた曹操は軍隊を解くにあたり、先ごろ安象(あんしょう)で劉表(りゅうひょう)と張繡の連合軍に待ち伏せされた際、100人足らずの手勢をひきいて苦戦を助けた将を捜すよう命ずる。

安象は、正史『三国志』や『三国志演義』では安衆(あんしゅう)とある。

幕僚のひとりが将台に立ち、その由を全軍に伝えると、李通(りつう)という者が名乗り出た。

かつて李通は黄巾(こうきん)の乱で功を立て、一時は鎮威中郎将(ちんいちゅうろうしょう)を務めていたが、その後、思うところがあり、故郷の汝南(じょなん)に帰っていたのだという。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第18回)では、李通が現任の鎮威中郎将であるように描かれている。

曹操は李通を裨将軍(ひしょうぐん)に任じて建功侯(けんこうこう)に封じ、郷土に戻って汝南の守りに就くよう命ずる。

裨将軍は原文では稗将軍(ひしょうぐん)。新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)に従い裨将軍としておく。なお、井波『三国志演義(2)』(第18回)では李通が建功侯に封ぜられたことは見えるが、裨将軍に任ぜられたことは見えない。

井波『三国志演義(2)』(第18回)ではここで曹操が上表し、孫策(そんさく)を討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)・関内侯(かんだいこう)とするよう取り計らっている。使者を派遣して江東(こうとう)に詔(みことのり)を届けさせ、劉表を防いで掃討せよと命じたともある。

さすがに今年の秋は昨年のような祝賀の祭りはなかったが、このころ50人ばかりの従者を連れた華やかな一行が駅館に着く。冀州の袁紹の使者だった。

(02)許都 丞相府(じょうしょうふ)

禁裏(宮中)を退出した曹操が丞相府に戻ってひと休みしていたところ、郭嘉(かくか)が袁紹の書簡を届ける。

袁紹は書簡の中で、北平の公孫瓚と国境の争いを起こしたため、兵糧が不足し兵士も足りないと言って協力を求めていた。曹操は不快な表情を見せ、袁紹の傲慢な態度への余憤を漏らす。

すると郭嘉は、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)が項羽(こうう)を制した例を持ち出したうえ、曹操の10勝の特長と袁紹の10敗の欠点を数え上げる。

その夜、曹操は袁紹の存在に深い思考を巡らせた。やがて袁紹と戦う肚(はら)を固めたが、翌日になると丞相府の役人に荀彧(じゅんいく)を呼びに行かせる。

曹操は人を遠ざけ待っていたが、荀彧が来ると袁紹の書簡を見せて意見を聞く。

荀彧は袁紹討伐の決意を聞き、賛成の意を示す。またこのとき、わが君には4勝の特長があり、袁紹には4敗の欠点があると、郭嘉と同じようなことを言う。

喜んだ曹操は、袁紹の使いを斬って即時宣戦してもよいかとも尋ねるが、荀彧は反対。常に許都をうかがう呂布(りょふ)を忘れてはいけないと言い、まだ荊州(けいしゅう)方面も安定していないと指摘する。

曹操は気の長い話だと感ずるが、荀彧は一瞬のことだと応じ、もうひとたびの忍耐が肝要だと言う。郭嘉と荀彧の意見がまったく同じなので、ついに曹操も迷いを捨てた。

翌日、袁紹の使者を呼び、要求の件を承知した旨を伝え、糧米や馬匹(ばひつ)ほか、おびただしい軍需物資を調えて引き渡す。

さらに使者には盛大な宴を設けてねぎらい、その帰国に際しては特に朝廷に奏請し、袁紹を大将軍(だいしょうぐん)・太尉(たいい)に進め、冀州・青州(せいしゅう)・幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)の4州を併せて領するよう言い送った。

大将軍・太尉に違和感があった。大将軍と太尉の兼任は異例だと思う。

管理人「かぶらがわ」より

ここに来て袁紹との決戦を意識する曹操。それでも郭嘉と荀彧の意見を聞き、今しばらくは先送り。

とはいえ袁紹の実力っていったい――。郭嘉と荀彧の評価を合わせると、実に曹操の14勝ということに……。これは絶望的な差ですよね。

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