吉川版『三国志』の考察 第253話 「慰霊大望(いれいたいぼう)」

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猇亭(おうてい)で勝利を収めて呉軍(ごぐん)を追撃する途中、関興(かんこう)は父の敵(かたき)である潘璋(はんしょう)に出くわす。

関興は潘璋を追いかけ山中に入るも、道に迷い夜を迎えてしまう。そこで一軒の山家に泊めてもらったが、やがて同じく道に迷った潘璋もこの家にたどり着く。

第253話の展開とポイント

(01)猇亭(おうてい)

奮迅、奮迅。帰るも忘れて呉(ご)の勢を追いかけた蜀(しょく)の関興(かんこう)は、乱軍の中で父の関羽(かんう)を殺した潘璋(はんしょう)に出会ったのである。

関興は逃げ走る潘璋を追って山中まで入ったが、その仇(あだ)は見失ってしまい、道に迷って闇夜をさまよっていたのだった。

潘璋が関羽の捕縛時に功を立てたことについては、先の第237話(04)を参照。

(02)とある山家

関興は一軒の山家に立ち寄り、一飯一宿の恩を乞う。老翁(ろうおう)に導かれ内なる一堂へ立つやいな、驚いて拝伏した。正面の小さい壇に明々と灯を照らし、亡父の関羽の画像が祭られていたのである。

関興が素性を明かして訳を尋ねると、老翁は答えた。

「この地はかつて関将軍(かんしょうぐん。関羽)が治めたもうた領地でした。将軍の生けるうちすら、私どもはご恩徳を頌(たた)えて家ごとに朝夕拝しておりました。いわんや今、神明と帰したもうをや」

老翁は関興をねぎらい、この奇縁を喜び、床下に蓄えていた酒瓶(さかがめ)を開き夜もすがら歓待した。すると深夜、外から扉を激しく叩(たた)く者がある。

「開けろ。ここを開けろ! それがしは呉の大将の潘璋だが、道に迷って困却いたした。朝まで母屋を貸してくれ」

これを聞いた関興は外へ躍り出るやいな、「父の仇、潘璋、逃げるなかれ!」と組みついた。不意を食った潘璋は組み敷かれ、ついに首を搔(か)かれてしまう。関興は歓喜してその首を馬の鞍脇(くらわき)にくくりつけると、老翁に別れを告げ立ち去る。

そのころ、ふもとから潘璋の部下の馬忠(ばちゅう)が登ってきた。見ると、主人の潘璋の首を鞍に付けた若武者が下りてくる。

しかもその手に抱えているのは、主人が関羽を討ったとき功により呉王(ごおう。孫権〈そんけん〉)から賜った、関羽が遺愛の有名なる「偃月(えんげつ)の青龍刀」だ。

このことについては先の第238話(01)を参照。

馬忠が打ってかかると、関興も力を尽くして戦う。このとき一彪(いっぴょう)の軍馬が炬火(たいまつ)を振り登ってくる。劉備(りゅうび)の命を受け関興を捜しに来た、張苞(ちょうほう)の一軍だった。

(03)猇亭 劉備の本営

これを見た馬忠が逃げてしまうと、関興は張苞と手を携え味方の本陣へ帰り、劉備にまみえて潘璋の首を献ずる。

(04)猇亭 呉の軍営

開戦このかた連戦連敗の呉軍は、さらに潘璋を失ってから、士卒の間に「とても蜀にはかなわぬ」という空気が漂ってきた。

原文「会戦このかた…」だが、ここは「開戦このかた」としておく。それほど文意は変わらないと思う。

もともとこの軍には、先に関羽のもとを離れ、呉の呂蒙(りょもう)に降参した荊州兵(けいしゅうへい)が多い。そのため蜀帝に対しては戦わぬうちから一種の畏怖(いふ)を抱いていたし、中には二心の者も相当にあった。

それらの兵は、この負け続きの虚に乗って不穏な兆候を現す。

「蜀の天子(てんし)が憎んでいる者は、裏切って関将軍を敵に売った糜芳(びほう。麋芳)と傅士仁(ふしじん)だ。だからあのふたりの首を取り蜀帝の陣に献上申せば、きっと重き恩賞をくださるに違いない」

「傅士仁」については先の第226話(08)を参照。

糜芳と傅士仁は身の危険を感じだすと、一夜、馬忠の寝首を搔いた。そしてその首を手に脱走し、蜀の陣へ駆け込む。

(05)猇亭 劉備の本営

糜芳と傅士仁を見ると、劉備は怒龍のごとき激色をなして罵る。

「激色をなして」はイマイチつかめなかった。「激しく顔色を変えて」、もしくは「心が高ぶる様子を見せて」というような意味合いだと思うが……。

このふたりを関興に授けたうえ、首を刎(は)ね関羽の霊を祭るよう言った。関興は小躍りしてふたりの襟髪をつかみ、父の霊前まで引きずっていき、首を斬って供える。

井波版『三国志演義』(第83回)では、劉備自ら刀を振るい、糜芳と傅士仁を斬り殺したことになっていた。

本望を遂げた関興の喜びに引き替え、張苞はひとりしおれていた。劉備はその心事を察し、こう言っていたわる。

「まだ汝(なんじ)の亡父を慰めてやれぬが、やがて呉の国に討ち入り、建業(けんぎょう)の城下へ迫る日は必ず張飛(ちょうひ)の仇もそそがずにはおかぬ。張苞よ、悲しむなかれ」

ところがすでにこのころ、その仇なる范疆(はんきょう。范彊)と張達(ちょうたつ)の両名は、身を鎖で縛められて檻車(かんしゃ)に乗せられ、呉の建業から差し立てられていた。

これは相次ぐ敗戦の悲報を受け、呉の重臣の一部に急激に和平論が台頭したことによるもの。もちろん主戦派の猛烈な論争も火のごとく駁(ばく)されたが、結局、一日戦えば一日、呉の地が危なく見えてきたので、孫権もそれに同意する結果となってしまう。

この使者として程秉(ていへい)が猇亭へ遣わされた。程秉は檻車の中に捕らえてきた范疆と張達の二醜とともに、沈香(ジンコウ)の銘木で作った箱に塩浸しとした張飛の首を封じ、併せて劉備の前に差し出す。

劉備はこれを収め、二醜を張苞の手に任せる。張苞は額を叩くと、「これぞ、天の与えか」と躍りかかって檻車の鉄扉を開き、ひとりずつつかみ出し、猛獣を屠殺(とさつ)するごとく斬り殺した。

ふたりの首を父の霊前に供え、張苞は声を上げ泣く。程秉はこの様子を眺めおぞけを震った。劉備は沈黙している。そこで程秉はこう告げて回答を促した。

「主君の仰せには、呉妹君(孫権の妹の孫氏)をもとの室へお返しして、再び長く好誼(よしみ)を結びたいと切に希望しておられる次第ですが……」

劉備が呉妹君を娶(めと)ったことについては、先の第173話(05)を参照。

その後、呉妹君が呉へ戻ったことについては、先の第192話(05)を参照。

劉備は明瞭(めいりょう)に、その媚態(びたい)外交を一蹴(いっしゅう)。そして明らかに宣した。

「朕の願いはこれしきのことにとどまらん。呉を討ち、魏(ぎ)を平らげ、天下ひとつの楽土を現じ、光武(こうぶ。劉秀〈りゅうしゅう〉)の中興に倣わんとするものである」

管理人「かぶらがわ」より

関羽と張飛の最期にかかわった人々が一挙に始末されていた第253話。関興や張苞はもちろん劉備を始めとする蜀の面々から見れば、ここでの出来事は快挙なのでしょうが……。それでは関羽や張飛には何の落ち度もなかったのか? という疑問は残ります。

潘璋や馬忠は呉から見れば功臣とも言えるわけですし、范疆と張達の暴挙も決して理由のないものではなかったわけですし……。

何だかこう一方的に蜀ばかりを持ち上げられると、どうしてもあまのじゃく的な物言いになってしまうのですよね。

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