吉川『三国志』の考察 第174話「朝の月(あさのつき)」

劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)の妹との婚儀が盛大に執り行われ、宮殿の内外には祝福の声が満ちあふれる。だが孫権は、思わぬ成り行きにひとり悩みを深めていた。

そこへ柴桑(さいそう)で療養中の周瑜(しゅうゆ)から一書が届くと、張昭(ちょうしょう)とも相談し、劉備を贅沢(ぜいたく)漬けにする策を採る。この策にまんまとはまり、日々大志を失っていく劉備を見た趙雲(ちょううん)はあることを思い出す。

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第174話の展開とポイント

(01)呉城(ごじょう。京城〈けいじょう〉?)

7日にわたる婚儀の盛典や祝賀の催しに、呉宮の内外から国中まで「めでたい、めでたい」と千載(1千年)万歳(1万年)を謳歌(おうか)していた。

この第174話で呉城としているところは、『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第55回)では南徐(なんじょ)となっていた。南徐については先の第171話(06)を参照。

また井波『三国志演義(4)』(第55回)では婚礼の後、劉備は孫乾(そんけん)を荊州(けいしゅう)へ帰らせ、(諸葛亮〈しょかつりょう〉らに)結婚の報告をさせたとある。だが吉川『三国志』では、孫乾を荊州へ帰したことに触れていなかった。

その中にあって、ひとり密かに鬱憤(うっぷん)のやり場もなく仮病を唱え、一室に耳をふさぎ、目を閉じていたのは孫権。

そこへ柴桑の周瑜から早馬が着き、一書を届けてくる。まだ金瘡(きんそう。刀傷や矢傷)の病は癒えないとのことながら、今後の方策がしたためてあった。

井波『三国志演義(4)』(第55回)では、孫権のほうが柴桑に使者を差し向け、周瑜に今後のことを相談したとある。

孫権は張昭と相談したうえ、周瑜の献策に従い、劉備を贅沢の蜜漬けにする手配にかかる。

こうして呉の東府に一楽園が築造された。楼宮の結構は言語に絶し、園には花木を植え、池畔には宴遊船をつなぐ。

廊廂(ろうしょう)には数百の玻璃灯(はりとう)を掛け連ね、朱欄には金銀をちりばめ、歩廊はことごとく大理石や孔雀石(くじゃくいし)をもって張った。

(02)呉城(京城?) 東府

劉備は若い新妻を擁してここに住む。金珠珍宝、ないものはない。綺羅錦繡(きらきんしゅう)、乏しいものはない。食えば飽満の美味、飲めば強烈な薫酒。酔えば耳に猥歌(わいか)甘楽、覚むれば花鳥また嬋娟(せんけん)の美女。

劉備は過ぎてゆく月日を忘れる。世の中の貧乏とか、艱苦(かんく)とか、精進とか、希望とかいうものまでを、いつか心身から喪失していた。

この様子を見た趙雲は毎日ため息ばかりついていたが、ここで諸葛亮から渡されていたふたつ目の錦囊(ふくろ)を開けてみる。

趙雲が諸葛亮から3つの錦囊を渡されたことについては、先の第172話(04)を参照。

さっそく趙雲は侍女を通じて劉備に目通りを求めた。そして、赤壁(せきへき)の恨みをそそぐと号し、曹操(そうそう)自ら50万騎をひきい、荊州へ攻め込んできたと告げる。

驚く劉備に、趙雲は帰国を促す。劉備は帰国する意思を示したものの、妻にも諮ると言って奥へ隠れる。

すでに夫人はおおよそ話を察していたが、別れを言いだす劉備に、自分も荊州へついていくと応じた。兄に知れたら大変でしょうけど、母には別に説く道があるとも。

劉備は夫人の考えを聞くと、密かに趙雲を呼んで妻の真情を語り、「元日の朝、人目に立たぬよう長江(ちょうこう)の岸へ出て待っておれ」と打ち合わせた。

(03)呉城(京城?)

明けて建安(けんあん)15(210)年、元旦はまだ暁闇深く、朝の月を残していたが、東天の雲には、はや旭日(きょくじつ)の光が差し昇りかけていた。

吉例通り、呉宮の正殿には除夜の万灯が灯されたまま、堂には文武の百官が居並び、孫権に拝賀をなして万歳を唱え、日の出とともに酒を賜ることになっている。

劉備は夫人とともに母公の宮房をそっと訪い、「では、これから江のほとりへ行き、先祖の祭りをしてまいります」と告げた。

ここで劉備の夫人を呉氏としていたのは誤り。彼女は孫堅(そんけん)の娘なので、正しくは孫氏。ちなみに呉氏は生母の姓である。

劉備の父母の墳墓(つか)はすべて涿郡(たくぐん)にあるので、母公は婿の孝心を嘉(よみ)する。また、それに従うのは妻の道であると、機嫌よくふたりを出してやった。

劉備は女房車に夫人を乗せ、美しい鞍(くら)を置いた駒にまたがる。中門から城楼門を出たが、誰も怪しまない。外城門まで出ると、劉備は車を押す者や供の武士たちを顧み、森の中の新泉で垢(あか)を清めてくるよう言いつける。

そして車の中で身支度を整えた夫人を、従者の置いていった一頭の駒へと移し、瞬く間に長江の埠頭(ふとう)まで来た。このころ日はすでに昇り、揚子江(ようすこう。長江)の水はまばゆいばかり元朝の紅波を打っていた。

(04)長江の埠頭

ここで待っていた趙雲や500の手勢と合流すると、劉備と夫人はまっしぐらに陸路を取り、国外へ急ぐ。

(05)呉城(京城?)

このことが孫権の耳に入るまでには、それから半日以上もかかった。

井波『三国志演義(4)』(第55回)では、孫権は酔って眠りこけており、目が覚めたときにはもう五更(午前4時前後)になっていたとある。つまり翌日の早朝。

外城門まで夫人の車を押して出た士卒や供の武士が、江辺を捜し回ったり、後難を恐れ、いたずらに上訴の時を移していたためである。いよいよそれと真相が判明したのは、すでに夕方に迫ったころだった。

あわただしい評議を経て、宵の城門から500余りの精兵が駆け出していく。急を聞き登城した程普(ていふ)が孫権に、追手には誰をお遣わしになりましたかと尋ねると、陳武(ちんぶ)と潘璋(はんしょう)を遣ったとの答え。人数は500だという。

それでは駄目です、と言いだす程普。呉妹君(ごまいくん)が劉備に同意して事に及んだと思われる以上、日ごろの気質を考えれば、陳武や潘璋では駄目なのだと。

そう聞いた孫権はいよいよ憤り、蔣欽(しょうきん)と周泰(しゅうたい)を呼ぶ。そしてふたりに自分の剣を授けると、劉備を両断したうえ、妹の首をも打ってくるよう命ずる。

管理人「かぶらがわ」より

贅沢漬け作戦の前に腑(ふ)抜けてしまう劉備でしたが、諸葛亮の錦囊のおかげで立ち直りました。

ですが、この短期間で若い夫人の心を捉えてしまうとは、オヤジの魅力が爆発したのでしょうか?

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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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