龐徳(ほうとく。龐悳)との一騎討ちで矢傷を負った関羽(かんう)。その傷が回復の兆しを見せたころ、曹操軍(そうそうぐん)はにわかに布陣を変えた。
関羽は土地の案内者を伴い、自ら高地に登って地形を眺めるが、ここで必殺の一計を思いつく。この日から彼の部下たちは、無数の船筏(ふないかだ)を作り始めた。
第229話の展開とポイント
(01)樊城(はんじょう)の城外 関羽の本営
父の矢傷も日増しに癒えていく様子なので、一時はしおれていた関平(かんぺい)も、帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)の人々と額を集め、作戦を練っていた。
ところが魏軍(ぎぐん)はにわかに陣容を変えて、樊城の北方10里へ移ったという報告。関平らは軽忽(けいこつ)を戒め合い、その由を関羽に告げた。
関羽は高地へ登り、関平に土地の案内者を連れてこさせる。そして、敵の七軍が旗を移した辺りが罾口川(そうこうせん)だと聞く。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「罾口川は川の名。荊州(けいしゅう)襄陽郡(じょうようぐん)に属す。後漢(ごかん)・三国時代にはこの地名はなかった」という。
また付近の白河(はくが)や襄江(じょうこう)は、いずれも雨が降ると、谷々から落ちてくる水を加えて水かさを増すという。
★『三国志演義大事典』によると「白河は河川の名。漢水(かんすい)の支流。後漢・三国時代には淯水(いくすい)と呼ばれていた」という。
さらに山の向こうは樊城の搦(から)め手(裏門)で、無双な要害と言われており、人馬も容易には越えられないのだとも。
関羽は案内者を退けると、何事か勝ち戦の成算が立ったもののように、「敵将の于禁(うきん)を擒(とりこ)とすることは、すでにわが掌(たなごころ)にあるぞ」と言う。その日から関羽は近くの材木を切るよう命じ、船筏を無数に作らせる。
将卒はみなこの命令を怪しんでいたが、やがて(建安〈けんあん〉24〈219〉年の)秋8月の候になると、明けても暮れても連綿と長雨が降り続いた。
襄江の水は一夜ごとに、驚くばかりみなぎりだしてくる。白河の濁流もあふれて諸川ひとつとなり、満々と四方の陸を沈め、見る限り果てなき泥海となってきた。
関羽は高所に登り、敵の七陣を毎日見ていた。岸に近いところの陣も、谷間の陣も次第に増してくる水に追われて、日々少しずつ高いところへ移っていく。
しかし、背後の山は険峻(けんしゅん)である。もうそれ以上は高く移せないところまで、敵の旗は山際へ押し詰められていた。
関羽は関平に言った。
「もうよかろう。かねて申しつけておいた上流の一川。そこの堰(せき)を切って押し流せ」
関平は一隊を引き連れ、雨中をどこかへ駆けていく。襄江の水上7里の地に、さらに分かれている一川があった。関羽は1か月も前から数百の部下と数千の土民を派して、水を築堤で高くせき止め、先ごろからの雨水を襄野(じょうや)一帯に蓄えていたのだった。
(02)樊城の郊外 于禁の本営
その日、于禁の本陣へ督軍の将の成何(せいか)が訪れる。彼は口を酸くして、一刻も早く罾口川を去り、ほかへ陣所を移すよう勧めていた。
成何は、蜀軍(しょくぐん)が軍営を高地へ移し、おびただしい船や筏を造らせていることを探っていた。これは何か考えがあってのことに違いないから、わが魏軍もこうしているべきではないと力説する。
「よろしい、よろしい。もうわかっておる。足下(きみ)はちと多弁でしつこすぎる」
于禁は苦りきって、無用な説を拒むような顔を示し、さらに言った。
「いくら降ったところで、襄江の流れが、この山を浸したような歴史はあるまい。つまらぬ危惧に理屈をつけ、督軍の将たる者が不用意な言を発しては困る」
成何は恥じ恐れて辞去したが、憂いと不満は去らなかった。その足で龐徳(龐悳)の軍営を訪ね、自分の考えと于禁の言葉をそのまま友に訴えた。
(03)樊城の郊外 龐徳の軍営
龐徳も同じ危惧を抱いていたので、たいへん驚く。しかし、于禁は総大将という自負心が強いから、到底、我らの意見を用いるはずはないとして、軍令に背いても、我々は思い思いにほかへ陣を移してしまおうと言った。
龐徳は酒など出して成何を引き留める。そのうちただならぬ雨風が吹きすさび、波の音とも鼓の音ともわからぬ声が、一瞬天地を包むかと思われた。
龐徳が帳(とばり)を払い、面を向けて見ると、山のような濁流の波が、波また波を重ね、陣前に搏(う)ち煙っている。
成何もそこを飛び出す。そして馬に乗って帰ろうとすると、彼方(かなた)の兵営や陣小屋が、ひとつの大波にぶつけられた。見る間に、建物も人馬も紛々と波上へ漂いだす。
(04)罾口川
この日、関平が上流の一川の堰を切ったため、白河と襄江のふたつが一時に岸へ搏ってきたのだった。罾口川の魏軍はほとんど水に侵され、兵馬の大半は押し流され、陣々の営舎は一夜のうちに跡形もなくなってしまった。
関羽は夜通し洪水の中を漕(こ)ぎ回り、多くの敵を水中から助け、降人の群れに加えていた。やがて朝の光に一方の山鼻を見ると、そこにはまだ魏の旗が翻り、約500余の敵が一陣になっている。蜀の軍卒は兵船や筏を連ね、旗の群れ立つ岬を囲む。
矢は疾風となって集まり、500余の魏兵は見る間に300、200と減っていく。董起(とうき)や成何はしょせん逃げる道はないと諦め、「このうえは白旗を掲げ、関羽に降を乞うしかあるまい」と言った。
★董起は正史『三国志』や『三国志演義』に登場しない。どうやら董超(とうちょう)を想定した人物のようだが……。
だが、ひとり龐徳は弓を離さず、「降る者は降れ。俺は魏王(ぎおう。曹操)以外に膝をかがめることは知らん」と言い、矢数のある限り射返し、奮戦していた。
関羽の一船も来て短兵急に矢石を浴びせかける。魏の将士は、バタバタと倒れては水中へ落ちていった。それでも龐徳は不死身のように、関羽の船を目がけて矢を射ては、生き残りの部下を励ました。
成何も今は死を決し、槍(やり)を振るって崖下へ駆け出す。しかし近づくが早いか、大勢の敵に滅多斬りにされてしまった。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第74回)では、成何は関羽の放った矢に当たり、水中へ転落したとある。
龐徳は手近な岩石をあらかた投げ尽くし、また弓を握ったが、彼の周囲には累々たる部下の死骸があるだけで、もう生きている味方はなかった。さしもの龐徳も力尽きたか、矢に当たったか、バタッと倒れる。
素早く一艘(いっそう)の船が漕ぎ寄せ、そこの岬を占領したかと思うと、死を装っていた龐徳が跳ね起きた。龐徳は蜀兵を蹴散らして得物を奪い、敵の船中へ飛び乗り、瞬く間に7、8人を斬殺すると、悠々と岬を離れる。
あまりの速さと不敵さに、蜀軍の船や筏はただただ肝を奪われていた。すると、まるで征矢(そや。戦に用いる矢)のごとく漕ぎ流していった一船が、いきなり龐徳の船の横腹へ、故意に舳先(へさき)を強くぶつけた。
そして、熊手や鉤槍(かぎやり)をそろえて舷(ふなばた。船べり)に引っかけ、瞬時に船を転覆させてしまう。
ところが、龐徳を水底へ葬った蜀の一将は満足せず、ただちに自分も濁流の中へ身を躍らせ、龐徳と水中に格闘し、ついにその大物を生け捕る。
戦いすでに終わったので、関羽は船を岸へ返し、勇士が龐徳を引いてくるのを待つ。勇士の名は、蜀軍随一の水練達者の周倉(しゅうそう)であったことが、もう全軍へ知れ渡っていた。
関羽の前には、魏の総司令の于禁も引っ立てられてきた。于禁が哀号して助命をすがると、関羽は憫笑(びんしょう)し、「犬ころを斬っても仕方がない。荊州の獄へ送ってやるから沙汰を待て」と言った。
次に龐徳が来る。傲然と突っ立ったまま、地へ膝をつけない。関羽は彼の勇を惜しみ、蜀に仕えるよう諭す。
すると、龐徳は大笑しながら言う。
「誰がそのようなことを頼んだ。要らざるおせっかいはせぬがいい。俺は魏王のほかに主というものを知らん。久しからずして玄徳(げんとく。劉備〈りゅうび〉のあざな)も俺のような姿になり、魏王の前に据えられるだろう」
「そのとき汝(なんじ)は玄徳に向かい、魏の粟(ぞく)を食ろうて生きよと、主にも勧める気か?」
関羽は激怒して大喝。龐徳は黙って地に座り、首を前に伸ばすや否や、戛然(かつぜん)、剣は彼の頸(くび)を断った。
雨はやんでも、洪水は容易に減水を示さない。龐徳が奮戦した岬には、その後、一基の墳墓が建てられた。彼の忠死を哀れみ、関羽が造らせたものだという。
(05)樊城
一方、この大洪水は、当然、樊川(はんせん)にも続いた。樊城の石垣は没し、壁は水浸しのありさまとなる。
そうでなくとも籠城久しきにわたり、疲れ抜いていた城中の士気はいやがうえにうろたえ、まるで戦意を喪失してしまった。
けれどただひとつの僥倖(ぎょうこう)は、洪水のために関羽側の包囲陣もいきおい遠く退いて、それぞれ高地に陣変えしなければならなくなったことだった。こうして実際の攻防戦は休止の姿に立ち至る。
その間に、城将の多くは首将の曹仁(そうじん)を囲んだ評議の末、むしろこの隙に夜中、密かに舟を降ろし、城を捨てて一時御身を隠されるのが賢明だと勧めていた。
曹仁もその気になり、脱出の用意をしかけていたが、これを知って満寵(まんちょう)が憤慨した。
「この洪水は長雨の山水がかさんだものゆえ、急には引かぬにせよ、半月も待てば必ずもとに返る。情報によれば、許昌(きょしょう)地方も水害に侵され、飢民は暴徒と化し、百姓は騒ぎ乱れ、事情は刻々と険悪な状態にあると承る」
「しかも、関羽の軍勢が鎮定に赴かず、乱に任せているのは、もし軍勢を割いて向かえば、すぐにこの樊城から後を追撃されるだろうと、大事を取って動かずにいるのです」
また満寵はこのように説き、曹仁のために処すべき道を明らかにした。
「いやしくも将軍は魏王の御舎弟。あなたの動きは魏全体に大きな影響を持ちましょう。よろしくここは孤城を守り通すべきです」
「もし城を捨てたまわば、関羽にとって思うつぼで、たちまち黄河(こうが)以南の地は荊州の軍馬で平定されてしまうに違いない。しかるときは、何の顔(かん)ばせあって魏王にまみえ、故国の人々にお会いなされますか?」
満寵の言葉は、曹仁の蒙(もう)をひらくに十分だった。彼は正直に自己の考え違いを謝し、それまでの敗戦主義を一掃するため、諸将を集めて訓示した。
「正直に言う。私は一時の間違った考えをいま恥じておる。国家の厚恩を受けて一城の守りを任ぜられ、かかる一期の時となって、城を捨て逃れんなどという気持ちを、ふとでも起こしたのは慙愧(ざんき)に堪えない」
「ご辺(きみ)たちもまた同様である。もし今日以後も、城を出て一命を助からんなどと思う者があれば、かくのごとく処罰するからさよう心得るがいい」
曹仁は剣を抜き、日ごろ自分が乗用していた白馬を両断し、水中へ斬り捨てた。
★井波『三国志演義(5)』(第74回)では、曹仁は白馬に乗って城壁の上に登り、諸将を集めて誓いの言葉を述べていたが、その白馬を斬り捨てたことは見えない。
諸将はみな顔色を失い、異口同音に誓った。
「必ず城と運命をともにし、命のあらん限り防ぎ戦ってご覧に入れる」
果たして、その日ごろから徐々に水は引いてきた。城兵は生気を取り戻し、壁を繕い、石垣を修築し、新しい防塁を加えて弩弓(どきゅう)や石砲を並べ、大いに士気を上げた。
(06)樊城の郊外 関羽の本営
20日足らずの後、まったく洪水は乾いた。関羽は于禁を生け捕り、龐徳を誅し、魏の七軍の大半をことごとく魚鼈(ぎょべつ。魚とスッポン)の餌として、勢い八荒(八方の果て。全世界)に震い、彼の名は、「泣く子も黙る」ということわざの通り天下に響いた。
このとき次男の関興(かんこう)が荊州から来たので、関羽は諸将の手柄と戦況をつぶさに書き、使いを命じて成都(せいと)へ遣った。
管理人「かぶらがわ」より
流れ去る魏軍と龐徳の死。満寵の言葉に反省し、気を取り直す曹仁。
ここまでの于禁には活躍もありましたが、関羽に降伏したところで事実上は終わってしまったようです。この後はパッとしない展開をたどることに……。
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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