吉川『三国志』の考察 第186話「兵学談義(へいがくだんぎ)」

韓遂(かんすい)と仲間割れした馬超(ばちょう)は奮戦むなしく曹操(そうそう)に敗れ、龐徳(ほうとく)や馬岱(ばたい)とも別れて落ち延びる。

一方、曹操は許都(きょと)へ凱旋(がいせん)の途に就く前夜、諸将を集めて宴会を催し、その席で兵学談義に興じた。

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第186話の展開とポイント

(01)渭水(いすい)の南岸

馬超と韓遂の仲間割れと同時に(曹操と馬超の)和睦も決裂する。馬超は、自ら付けた火と自ら招いた禍いの兵に追われ、辛くも渭水の仮橋まで逃げ延びてきた。

顧みると龐徳(龐悳)や馬岱とも散りぢりになり、付き従う兵はわずか100騎に足らない。近づいてくる李堪(りたん)を味方だと信じていると、彼は真っ先に槍(やり)をひねって馬超へ打ちかかった。

李堪について手元にある3種類の吉川『三国志』を見比べてみると、講談社版(新装版および別の古いもの)では「李湛(りたん)」となっていたが、新潮社版では「李堪」となっていた。なお『三国志演義』や正史『三国志』でも「李堪」となっているので、この直しはアリだと思う。

馬超が赫怒(かくど。怒るさま)して当たると、李堪は勢いを恐れて馬を返しかける。すると、また一方から曹操配下の于禁(うきん)の部隊が迫ってきた。

于禁が放った矢は馬超を逸れたが、皮肉にも李堪の背に当たり、落馬して死んだ。馬超は于禁の部隊を散々に駆け散らし、渭水の橋上でホッと大息をつく。

(02)渭水の橋上

やがて夜が明ける。馬超は橋上に陣取り、味方の集合を待っていたが、集まってくるのは敵兵と敵の射る矢ばかりだった。

幾度も橋上から奮迅して敵の大軍へ突撃を試みたが、そのたびに五体の手傷を増やし、むなしく橋上に引き返すほかなかった。左右の部下は再び橋上に帰らず、ある者は矢に当たり、目の前で倒れていく。

馬超は最後の猛突破を試み、4、50騎で死に物狂いに曹操軍の一角へ突貫する。

(03)渭水

いつか馬超は一騎となるが、小半刻も奮戦。すると西北(いぬい)のほうから、味方の馬岱と龐徳の軍勢が駆けつけてくる。

曹操軍の側面を突いて遠くへ蹴散らし、龐徳が馬超の身を鞍(くら)の脇に抱えると、雲か霞(かすみ)のように落ちていく。

曹操が馬超の首に千金の賞を懸け、生け捕った者は万戸侯(ばんここう)に封じてやろうと言うと、一卒一夫まで奮い立ち、追撃を争い合う。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第59回)では、馬超の首を得た者には千金を賜って万戸侯とする。また、馬超を生け捕りにした者は大将軍(だいしょうぐん)とすると言っていた。

(04)敗走中の馬超

馬超は追い詰められ、取って返しては敵に当たり、踏みとどまっては追手と戦い、わずか30騎に討ち減らされる。夜も寝ず昼も食わず、ひたすら西涼(せいりょう)を指して逃げ落ちた。

龐徳と馬岱は、途中で馬超と別れ別れになってしまい、遠く隴西(ろうせい)地方を望んで敗走したが、あくまで曹操は追撃を加えた。

(05)長安(ちょうあん)の郊外

曹操が長安の郊外まで来ると、都(許都)から荀彧(じゅんいく)の早馬が着き、一書をもたらす。南方の動きに注意を促すもので、できるだけ早く兵を収め、許都へ帰還するよう求めていた。

井波『三国志演義(4)』(第59回)では、荀彧から帰還を促す早馬が着いたことは見えない。

そこで曹操は全軍をまとめ、引き揚げの軍令を下す。左腕を斬り落とされた韓遂を西涼侯に封じ、ともに降参した楊秋(ようしゅう)や侯選(こうせん)らも列侯(れっこう)に加え、渭水の口を守るよう命じた。

韓遂が左腕を斬り落とされたことについては、前の第185話(08)を参照。

このとき、もと涼州(りょうしゅう)の参軍(さんぐん)を務めていた楊阜(ようふ)が意見を述べる。

「馬超の勇は、いにしえの韓信(かんしん)や英布(えいふ)にも劣らないものです。今日、彼を討ち漏らしてのお引き揚げは、山火事を消しに行き、山中に火種を残して去るようなもので、危険この上もありません」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「英布は黥布(げいふ)のこと。(韓信と)ともに高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)の功臣」だという。

さらに楊阜は、以前に涼州刺史(りょうしゅうしし)を務めていた韋康(いこう)を推薦し、この者に冀城(きじょう)を守らせ、一軍を預けておけば、大きな抑えになると勧める。

曹操は、楊阜と韋康に馬超の抑えを命じ、長安には韓遂とともに夏侯淵(かこうえん)を留めることにした。

ここで夏侯淵は張既(ちょうき)を推薦し、京兆尹(けいちょういん)への起用を求める。曹操はこの乞いを許した。

許都へ向かう前夜、曹操は諸将と一夕の歓をともにする。その席上では、諸将の問いに答える形で兵学談義を行った。

(06)許都

やがて曹操が帰還してくると、いよいよ献帝(けんてい)は彼を恐れ、自ら鸞輿(らんよ。天子〈てんし〉の車)をもって凱旋軍を出迎える。

また曹操を重んじ、「漢(かん)の相国(しょうこく)たる蕭何(しょうか)のごとくせよ」と言った。すなわち曹操は履(くつ)のまま殿上に昇り、剣を佩(は)いて朝廷に出入りするのも許される身となったのである。

新潮文庫の註解によると「(これらは)高祖(劉邦)の功臣である蕭何に許された特権。天子に謁見する際に名を言わず、朝廷で小走りをせず、剣を帯びて昇殿できる」という。

管理人「かぶらがわ」より

曹操に敗れ、龐徳や馬岱とも別れて落ち延びる馬超。渭水を巡る一連の戦いに決着がつきました。

そう簡単に馬超を生け捕りにできるはずはないですが、誰でも一躍、万戸侯というのは確かに破格の恩賞。一卒一夫まで奮い立ったというのもうなずけます。

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