吉川版『三国志』の考察 第231話 「建業会議(けんぎょうかいぎ)」

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樊川(はんせん)地方における敗報が伝わるや、鄴都(ぎょうと)の魏王宮(ぎおうきゅう)は騒然とした。

曹操(そうそう)は孫権(そんけん)を説いて関羽(かんう)の後ろを突かせようと考え、実際に徐晃(じょこう)を大将とする5万の援軍を差し向けたうえ、別に孫権のもとへ急使を遣わす。

第231話の展開とポイント

(01)樊城(はんじょう)の城外 関羽(かんう)の本営

左臂(ひだりひじ)の手術を終えて退がると、翌日、華陀(かだ。華佗)は改めて関羽の容体を見舞う。

「華陀」については先の第59話(04)を参照。

関羽は夕べは熟睡したうえ、今朝、目覚めてみると痛みも忘れていると言い、華陀を「天下の名医」と称える。

すると華陀も、これまで多くの患者に接してきたが、まだ将軍(しょうぐん)のような患者には出会ったことがないと言い、関羽を「天下の名患者」と評した。

関羽は百金(ひゃっきん)を包んで贈ろうとしたが、華陀は手にも取らない。飄然(ひょうぜん)と小舟に乗り江上へ去る。

(02)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう)

そのころ魏王宮を中心として、鄴都や許都(きょと)の府は異様な恐慌におののいていた。

井波版『三国志演義』(第75回)では、このとき曹操は(鄴都でも長安〈ちょうあん〉でもなく、)許都にいたように書かれている。

早馬、また早馬。みな樊川(はんせん)地方の敗戦を伝え、七軍の全滅、龐徳(ほうとく。龐悳)の戦死、于禁(うきん)の投降などが広く国中に漏れたため、庶民まで上を下へと騒動して、早くも関羽軍が攻め入るものとおびえ逃散(ちょうさん)する百姓さえあった。

樊川地方の敗戦については先の第229話(04)を参照。

魏王宮では今日もそのことについて大会議が開かれている。この会議でも関羽の名を恐れおびえた人々は、魏王宮の遷都説まで叫んだ。

ここは、井波版『三国志演義』(第75回)の話とごちゃ混ぜになっている感じ。このとき検討されていたのは(鄴都ではなく)、許都を遷都するかどうかということ。

だが、司馬懿(しばい)が立って不可を論ずる。

「要するに、今度の大敗は魏軍が弱かったのではなく、洪水の力が関羽に味方したためと言ってよい。その関羽の勢いがあまりに伸びるのを欲しないのは、呉(ご)の孫権(そんけん)である。いま呉を説いて関羽の後ろを突けと言えば、必ず呼応するに違いない」

司馬懿とともに、丞相府(じょうしょうふ)の「主簿(しゅぼ)」をしている蔣済(しょうさい)も泣いて言った。

「私と于禁は30年来の友であったが何ぞ図らん、この期において龐徳にすら劣ろうとは……。いま仲達(ちゅうたつ。司馬懿のあざな)の申された策は金玉の言と思う。一刻も早く呉へ急使を派し、この大屈辱をわれらも一致して拭(ぬぐ)わねばならん」

曹操(そうそう)は考えていたが、ただ弁舌の士のみを遣っても、あるいは呉が動かないかもしれない。あくまで難には魏が当たる事実を示しておき、しかる後に説こうと言った。

そのため徐晃(じょこう)が大将に選ばれ、5万の兵をひきいて陽陵坡(ようりょうは)まで急行。

「呉が呼応すると決まったら、すぐに関羽軍へ攻めかかれ」

徐晃軍は曹操の命を含んで待機し、満を持すの形を取っていた。

井波版『三国志演義』(第75回)では「陽陵陂」とある。

(03)建業(けんぎょう)

魏の急使は建業に着くと、今や呉の向背こそ天下の将来を左右するものと、あらゆる外交手段や裏工作に訴え、その吉左右(きっそう)を待っていた。

評議は一決しない。呉にとっても重大な岐路である。のみならず呉は、先ごろから密かに魏の繁忙をうかがい、この時に江北(こうほく)の徐州(じょしゅう)を奪ってしまうべきではないかと考えていたところである。だが、曹操から内示してきた条件もなかなかよい。

ここへ上流の陸口(りくこう)を守っていた呂蒙(りょもう)が帰国する。時局の急を察し、一大献策のため帰ってきたのだという。呂蒙は、作戦上にも固く必勝の信念を抱いているらしく陳じた。

「今こそわが呉は長江(ちょうこう)の天与を利し、荊州(けいしゅう)を取り蜀魏(しょくぎ)の侵略に永遠の国境を開いておかねばなりません。長江の険をもって境とし、強馬精兵を内に蓄えてさえおけば、徐州のごときはいつでも取れる機会がありましょう」

彼の発言は、会議の方針を導くに十分な力があった。

孫権は後で言った。

「大策の決まったうえは、現地のことはすべて汝(なんじ)の思慮に任せる。適宜対処せよ」

(04)陸口 呂蒙の本営

呂蒙は速船(はやぶね)で陸口に帰る。そして、すぐに荊州方面へ隠密を放ち探ってみると、意外な備えがあることがわかった。

というのは沿岸の20里(り)おき、30里おきの要所要所に「烽火台(のろしだい)」が築かれており、ひとたび呉との境に変があれば、瞬時に「つなぎ烽火」が荊州の本城へ急を告げる。

また、応援の融通や防御網の完備にも整然たる法があり、水も漏らさぬ仕組みになっているという。予想外の関羽の用心なので、呂蒙はそれを探り知るとひどく舌を打ち鳴らす。

その日から仮病を使い始め、「宿痾(しゅくあ)の再発に悩み、近ごろ引きこもり中」と、味方にまで深く偽っていた。

(05)建業

動くべきはずの陸口の兵が依然として動かずにいるのみか、呂蒙が病にかかり一切の人に顔も見せないでいるといううわさに、孫権も甚だしく心配した。

焦燥のあまり陸遜(りくそん)に容体を見てくるよう言いつける。陸遜は命を受けると、「ご心配には及びません。おそらく呂蒙どのの病は仮病でしょう」と言って出た。

(06)陸口 呂蒙の本営

しかし陸遜が陸口に着いてみると、呂蒙は本当に病閣を閉じていた。陣中は寂として、将士も憂いに沈んでいる。

陸遜は呂蒙に会うと、ニヤニヤ笑いながら言った。

「将軍。もう病床からお起きなさい。ご病気は、それがしがすぐに治して差し上げる」

ここで陸遜は、彼の病の理由が、関羽が呉との国境に防御の手を緩めていないことにあると見抜いてみせる。

そして、いよいよ大病なりと称し、ふたりで建業へ帰ろうと言う。仮病を唱えて呂蒙が職を退き、名もない将と交代させ、ひたすら荊州の鼻息を恐れるがごとき様子を見せるのだと。

そうすれば関羽の心も驕(おご)り、ついにはここの兵を樊城のほうへ回すに違いない。呉の大進出はまさにその時ではないかと。

管理人「かぶらがわ」より

華陀の荒療治のおかげですっかり傷の具合もよくなった関羽。一方、互いを利用して荊州への進出をもくろむ魏と呉。このあたりから、今後の陸遜の本格的な活躍を匂わせていますね。

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