吉川『三国志』の考察 第146話「舌戦(ぜっせん)」

柴桑(さいそう)に到着した魯粛(ろしゅく)はさっそく登城するが、府堂では曹操(そうそう)から送られた檄文(げきぶん)への対応を巡る協議が続いていた。

その翌日、城内の一閣に招かれた諸葛亮(しょかつりょう)は、集まった呉(ご)の重臣たちを次々と論破していく。

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第146話の展開とポイント

(01)柴桑

諸葛亮と魯粛を乗せた船は、やがて長江(ちょうこう)から潯陽江(じんようこう)の入り江に入る。そこからは陸路、西南に鄱陽湖(はようこ)を見ながら騎旅を進めた。

そして柴桑の街に着くと、魯粛はひとまず諸葛亮を客館へ案内し、自身はただちに登城する。府堂では文武百官が集まり大会議中だった。

孫権(そんけん)は魯粛を呼び入れて席を与えると、曹操から送られた檄文(げきぶん)を見せた。さらに魯粛は、満座の大半は戦わないほうがいいという意見に傾いていると聞く。

張昭(ちょうしょう)ほかの重臣たちは、みな口をそろえて不戦論を唱える。孫権はやや疲れを見せ、「衣服を更(か)えてまた聴こう」と席を立ち、殿裏へ隠れた。衣を更えるとは休息の意味である。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「更衣は着替えという意味から転じて、高貴な者が厠(かわや)へ行くこと」だという。

魯粛はひとりだけついていく。孫権が意中を察して親しく尋ねると、魯粛は勃然と主戦的な気を吐いた。みな自己の保身と安穏を先に考え、ご主君のお立場も国恥も大事と考えていないと。

若い孫権はこの言葉に動かされる。消極論には迷いを抱くが、積極論には本能的にも血が高鳴った。

ここで魯粛は、江夏(こうか)から諸葛亮を連れてきたことを話し、親しく意見を聴くよう勧める。そこで孫権はこの日の評議を一応取りやめ、明日また改めて参集するよう諸員に言い渡す。

翌日、柴桑城の一閣には呉の知囊(ちのう)と英武とが20余人も居並んでいた。諸葛亮は魯粛に導かれてくると、居並ぶ人々にいちいち名を問い、いちいち礼を施してから、静かに客位の席へ着く。

一同こもごもの挨拶が済むと、まず張昭が皮肉な質問をした。

劉備(りゅうび)どのから三顧の礼をもって迎えられ、魚が水を得たようなものだとまで喜ばれたあなたなのに、その後は荊州(けいしゅう)も取らず、新野(しんや)も追われ、惨めな敗亡を遂げられたのは、いったいどういうわけなのかと。

諸葛亮は、新野という僻地(へきち)に兵も兵糧も乏しい中、曹操の大軍の強襲を受けながらも、白河(はくが)での水攻めや博望(はくぼう)での火攻めなど、決して醜い壊走はしていないと反論。

白河での水攻めについては先の第140話(05)を参照。

博望での火攻めについては先の第138話(03)を参照。

当陽(とうよう)では一時、惨めな離散を体験したものの、これも主君を慕う数万の百姓老幼が陸続とついてきたため、ついに江陵(こうりょう)へ入ることができなかった結果であり、それもまた主君の仁愛を証するもので、恥なき敗戦とは意義が違うのだと説く。

これを聴いた張昭は沈黙。さしもの彼も、心を取りひしがれたような面持ちに見えた。

続いて虞翻(ぐほん)が立ち上がり、曹操の大軍への対策を尋ねる。

諸葛亮は、曹操は100万と号しているが、実数は7、80万というところだろうと言い、それも袁紹(えんしょう)や劉表(りゅうひょう)の兵を併せたもので、いわゆる烏合(うごう)の衆。何を恐れるほどなものがあろうかと説く。

虞翻は劉備の惨敗ぶりを持ち出して大言を笑うが、諸葛亮は呉の国政に携わる重臣たちが、主君に降伏を勧めている惰弱、卑劣ぶりを非難。

虞翻が口を閉じると、代わって歩隲(ほしつ。歩騭)が立つ。

そして、蘇秦(そしん)や張儀(ちょうぎ)の詭弁(きべん)を学び、三寸不爛(ふらん)の舌を振るって遊説に来たのかと問う。

新潮文庫の註解によると「(蘇秦と張儀は)戦国(せんごく)時代に合従連衡(がっしょうれんこう。六国が同盟し、大国の秦〈しん〉に対抗すること)の外交策を説いた縦横家(合従や連衡を説いた人々)」だという。

諸葛亮は、蘇秦と張儀は弁舌のみの人物だったわけではないと言い、曹操の宣伝や威嚇(いかく)に乗ぜられ、たちまち主君に降伏を勧めるような自己の小才をもって推し量り、「蘇秦、張儀の類い」などと軽々しく口にする者には、まじめに答える価値もないと一蹴する。

歩隲が顔を赤らめてしまうと、薛綜(せつそう)が唐突に問うた。

「曹操とは何者か?」

薛綜は、先の第135話(01)であざなの敬文(けいぶん)として既出。

諸葛亮が間髪を入れず(少しの隙間も置かず。正しくは「間、髪を入れず」)に「漢室(かんしつ)の賊臣」と答えると、薛綜は、その解釈は根本的に誤謬(ごびゅう)であると指摘。

いま漢室の政命は尽き、曹操の実力は天下の3分の2を占めるに至り、民心も彼に帰せんとしている。これを賊と言うなら、舜(しゅん)も賊、禹(う)も賊、武王(ぶおう)、秦王(しんおう)、高祖(こうそ)、ことごとく賊ではないかと。

新潮文庫の註解によると「(武王は)周(しゅう)王朝の始祖。殷(いん)を滅ぼした」という。

同じく新潮文庫の註解によると「(秦王は)秦の始祖である始皇帝(しこうてい)。王とするのは貶称(へんしょう)。六国を滅ぼした」という。

同じく新潮文庫の註解によると「(高祖は)漢帝国の始祖である劉邦(りゅうほう)のこと。秦を滅ぼした」という。

諸葛亮は薛綜を叱り、「ご辺(きみ)の言は、父母もなく主君もない人間でなければ言えないことだ」と評する。「人と生まれながら、忠孝の本(もと)をわきまえぬはずはあるまい」とも。

そのうえ「貴下(あなた)は主家が衰えたら、曹操のようにたちまち主君の孫権をないがしろになされるか?」と問い返した。

代わって陸績(りくせき)が論じかける。

相国(しょうこく)の曹参(そうさん)の後胤(こういん)で、漢朝累代の臣である曹操と、中山靖王(ちゅうざんせいおう。劉勝〈りゅうしょう〉)の末裔(まつえい)と称しながら、その生い立ちは蓆(むしろ)を織り履(くつ)を商っていた劉備。これを比べるに、いずれを珠とし、いずれを瓦とするか、おのずから明白ではないかと。

陸績は、先の第135話(01)であざなの公紀(こうき)として既出。

諸葛亮は、以前に陸績が袁術(えんじゅつ)の席上で橘(タチバナ。柑子〈コウジ〉の古い名前。蜜柑〈ミカン〉の類い)を懐に入れたという話に触れた後、至徳をたたえられた周の文王(ぶんのう)や、武王を諫めた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の態度を論じ、今の曹操の行いは、家門が高ければ高いほど、その罪は深大なのだと説く。

新潮文庫の註解によると「幼い陸績が袁術の席で、母への孝のため蜜柑を持ち帰った話は『二十四孝(にじゅうしこう)』に記される」という。

主君の劉備については、大漢400年の治乱の間には必然、多くの門葉や支族も僻地に流寓(りゅうぐう)されており、あえなく農田に血液(血筋)を隠しておられたことが何の歴史の恥になるだろうかと述べ、時が来たって草莽(そうもう)の内より現れ、泥土を去り珠金の質を世に挙げられたことは、当然の帰趨(きすう)だとする。

それなのに、履を綯(な)っていたからと卑しみ、蓆を織っていたからと蔑むなど、そのような目をもって世を見、人生を見、よくも一国の政事(まつりごと)に参ぜられたものではあると、陸績を非難した。

陸績が胸ふさがり二の句も継げないでいると、代わって厳畯(げんしゅん)が立つ。

厳畯は、先の第135話(01)であざなの曼才(まんさい)として既出。

厳畯は、諸葛亮の弁舌をたたえながらも揶揄的(やゆてき)に言った。

「そも、きみはいかなる経典(けいてん)によってそのような博識になったのか。ひとつその蘊蓄(うんちく)ある学問を聴こうではないか」

諸葛亮は一喝して答える。

「末梢(まっしょう)を論じ枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮らすのは世の腐れ儒者の仕業である。何で国を興し民を安んずる大策を知ろう」

すると程秉(ていへい)は、「では、文は天下を治むるに無用のものと言われるか?」と反駁(はんばく)。

程秉は、先の第135話(01)であざなの徳枢(とくすう)として既出。

諸葛亮は早吞み込みをしないようにと言い、学文には小人の弄文と、君子の文業とがあると答えた。

満座声なく、鳴りを潜めてしまったので、ここで諸葛亮が一問してみる。

「最前からおのおのの声音を通してこの国の学問を察するに、その低調さに憫然(びんぜん)たるものを覚える。この観察にご不平はおありか?」

それに対し、もう誰も立って答える者がなかったとき、沓音(くつおと)高く入ってきた者があった。

管理人「かぶらがわ」より

単身で呉へ乗り込み、まさに三寸不爛の舌を振るう諸葛亮。こういった問答はまとめるのも大変でした。

もしこの場に同席していたら、諸葛亮に何か言えると思います? よくよく考えて発言しないと、ただただ己の無知ぶりをさらけ出すことになるのでしょうね……。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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