吉川『三国志』の考察 第121話「遼西・遼東(りょうせい・りょうとう)」

南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を討ち取った曹操(そうそう)は、幽州(ゆうしゅう)に逃げ込んだ袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)を追い、さらに遼西(りょうせい)および遼東(りょうとう)への遠征を決断する。

この際、配下の中から多数の異論も出たが、郭嘉(かくか)だけは曹操の大志を支持し、皆も彼の説くところに同意するに至った。

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第121話の展開とポイント

(01)幽州

曹操は烏丸(うがん。烏桓)の地へ逃げた袁熙と袁尚を追い、遼西および遼東への進軍を決める。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(烏丸は)幽州北部に居住した遊牧騎馬民族」という。

だが、この決定には曹洪(そうこう)以下、だいぶ異論も多かった。

遠征から遠征を続けている間に、遠い都(許都〈きょと〉)に変が起こったらどうするか? また、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)や劉備(りゅうび)などが留守をうかがい、虚を突いたらどうするか?

実に当然な憂いだったが、ひとり郭嘉だけは曹操の大志を支持。千里の遠征も制覇の大事も、そう二度三度は繰り返せないと言い、袁紹(えんしょう)の遺子を流浪させておくことへの懸念を指摘した。

これで議事は決したものの、遼西や遼東は夷狄(いてき。未開の蛮族)の地とされており、かつて経験のない外征だった。

そのため軍の装備や糧食の計には万全が尽くされ、戦車と兵糧車だけでも数千輛(りょう)という大規模な輜重(しちょう)部隊が編制された。

このほかに純戦闘部隊が数十万。騎馬あり、徒歩(かち)あり、輿あり。また弩弓隊(どきゅうたい)あり、軽弓隊あり、鉄槍隊(てっそうたい)あり。工具ばかりを担っていく労兵隊などまで、実に物々しいばかりな大行軍だった。

(02)易州(えきしゅう)

廬龍寨(ろりゅうさい)を通過して易州まで来ると、郭嘉が風土病にかかり、輿にも乗っていられなくなった。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「易州は正しくは易県。後漢(ごかん)では冀州(きしゅう)河間郡(かかんぐん)に属す」という。また「易州というのは実際には隋代(ずいだい)に置かれた行政区画である」ともいう。

なお、ここでは廬龍寨を通って易州へ着いたように描かれていたが、地理的な誤解がある。廬龍寨は幽州遼西郡に属しており、冀州河間郡に属している易州(易県)に比べるとだいぶ柳城(りゅうじょう)に近い。「易州を通って廬龍寨に着いた」としないと話が合わない。

郭嘉は大熱をこらえながら、なおも献策。行程がはかどらないのを見、軽騎の精猛のみをひきいて道の速度を3倍にして、夷狄の不意を突くよう勧める。その余の軍勢は自分が預かり、病を養いながら待っていると。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第33回)では郭嘉は曹操に、軽装備の軍勢をもって倍の速度で前進し、相手の不備を急襲するよう勧めていた。ただし、道をよく知る案内者が必要だとも言っている。

曹操は献策を容れて当初の大軍を改編。雷挺隊(らいていたい)と称する騎馬と車ばかりの大部隊をひきい、しゃにむに遼西の境へ進入した。

道案内には、もと袁紹配下の田疇(でんちゅう)が立つ。あらゆる難路が横たわっていたので、もし彼がいなかったら、地理の不案内だけでも立ち往生したかもしれなかった。

井波『三国志演義(2)』(第33回)では、このとき田疇は靖北将軍(せいほくしょうぐん)に任ぜられていた。

(03)柳城

こうして曹操軍は、ようやく夷狄の大将である冒頓(ぼくとつ)の柳城へ近づく。建安(けんあん)11(206)年の秋7月のことだった。

新潮文庫の註解によると「冒頓は高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)を苦しめた匈奴(きょうど)の単于(ぜんう。王)。ここで曹操が攻める烏丸の単于は蹋頓(とうとん)が正しい」という。なお、井波『三国志演義』(第33回)でも蹋頓とあった。

曹操は柳城の西の白狼山(はくろうざん)を陥し、敵の様子を俯瞰(ふかん)。

配陣が兵法にかなっていないことを見て取ると、張遼(ちょうりょう)を先鋒とし、于禁(うきん)・許褚(きょちょ)・徐晃(じょこう)などを三面から三手に分け、城外の敵を一塁一塁と踏み破る。やがて冒頓を討ち取り、7日のうちに柳城を占領した。

井波『三国志演義(2)』(第33回)では、張遼が蹋頓をバッサリ斬り落としたとある。

袁熙と袁尚はまたも拠るところを失い、わずか数千の兵を連れ遼東へ落ちていく。そのほかの夷兵はみな降参して出た。

曹操は田疇の功を賞して柳亭侯(りゅうていこう)に封じようとしたが、彼はどうしても受けない。以前は袁紹に仕えた自分が、その遺子を追う戦陣の道案内に立って爵禄を受けるなど、義において忍びないというのだった。

曹操はもっともなことだと思いやり、封爵の代わりに議郎(ぎろう)に任じ、柳城の守りを命ずる。

律令正しい軍勢と文化的な装備や施政は、辺土の民を著しく徳化した。近郡の夷族は貢ぎ物を手に続々と柳城の市に群れをなし、みな恭順の意を示す。その中には1万頭の駿馬(しゅんめ)を献納した豪族もあり、曹操の戦力は大いに強化された。

それでも曹操は日々、易州に残した郭嘉の病体を思うことを忘れない。易州からの便りで容体が思わしくないと知ると、「ここは田疇に任せて帰ろう」と言いだす。

(04)易州へ向かう曹操軍

すでに冬にかかっており、車騎や大兵の行路は困難を極めた。時には200余里の間に一滴の水もなく、地下30丈を掘って求めなければならない。青い物は一草もないので馬を倒して食い、病人が続出するありさまだった。

(05)易州

易州へ帰り着いた曹操は第一に、先に夷境への遠征を諫言した諸将に「よく善言を言ってくれた」と恩賞を分け与えた。

今回は幸いにも勝利を得られ、無事に帰還することができたが、これはまったく奇跡か天佑(てんゆう)と言うほかはないと。獲るところは少なく、危険なことは実に甚だしかったとも。そして、今後も自分に短所があれば歯に衣を着せず、何でも諫めてもらいたいと話した。

次に郭嘉の病床を見舞う。郭嘉は曹操の無事な姿を見ると安心したのか、その日に息を引き取った。曹操は骨肉のひとりを失ったように、涙を流して悲しむ。

井波『三国志演義(2)』(第33回)では曹操が易州に到着したとき、郭嘉が亡くなってからすでに数日が経過していたとある。

郭嘉の陣葬が終わると、ずっと病床に仕えていた一僕が、そっと曹操に一封の書面を差し出す。郭嘉がしたためた遺言だという。ここに書いたようになされば、遼東の地は自然に平定するだろう、とおっしゃっていたとも。

数日後、諸将の間で遼東をどうするか私議論争される。袁熙と袁尚が遼東へ奔って遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫康(こうそんこう)を頼み、またまた禍いの兆しを見せていたからだった。

ところが曹操は今度に限ってひどく落ち着き、捨て置いても大事ないと言う。近いうちに公孫康から袁兄弟の首が送られてくるだろうとも。

(06)遼東(襄平〈じょうへい〉?)

このころ公孫康は、身の置きどころのない袁熙と袁尚の兄弟を助けたものの、いっそ殺すべきだろうかと迷っていた。

そこで一族の者の意見を容れ、人を遣って曹操に攻め入る様子がないと見極めると、ある日、城下にいる袁兄弟を酒宴に迎える。

ふたりは一閣の部屋へ通されたが、この寒いのに暖炉の備えもなく、榻(とう。長椅子)の上には敷物もなかった。

公孫康が帳(とばり)の陰に合図を送ると、10余人の力者(りきしゃ)が一斉に躍り出す。彼らはふたりに組みつき、左右から脾腹(ひばら)に短剣を加え、無造作に首にしてしまう。

(07)易州

曹操は易州から動かない。夏侯惇(かこうじゅん)や張遼などは無意味な滞陣だと諫め、都への凱旋(がいせん)を促す。

曹操は皆に、遼東から袁熙と袁尚の首が届くのを待っているのだと答えたが、諸将は心事を怪しみ、嘲笑を禁じ得なかった。

しかし、半月ほどすると公孫康の使者が到着。書状を添え、箱に入れた塩漬けの二顆(にか)の首を献ずる。

諸人は驚いたが、曹操は限りなく笑い興じ、郭嘉が遺言に記していた言葉を聞かせた。彼は遼東への進攻を極力戒め、こちらから動かなければ、おのずと袁兄弟の首級が届けられるだろうと早くから見抜いていたのだった。

こういった先見の明もありながら、易州の軍旅のうちに病死した郭嘉はまだ38歳だった。

史実の郭嘉は建寧(けんねい)3(170)年生まれ。建安12(207)年に病死したとき38歳だったというのは史実とも合っている。

曹操は遼東の使者を厚くねぎらい、公孫康を左将軍(さしょうぐん)に任じたうえ襄平侯(じょうへいこう)に封じた。

そして郭嘉の遺髪を手厚く都へ送ると、やがて自身も全軍をひきいて冀州まで帰った。

管理人「かぶらがわ」より

遼東を捨て置き、遼西から引き返した曹操。その後は病で逝った郭嘉の遺言通りの展開になりました。

一方で袁熙と袁尚は逃げに逃げての最期。さらに朝鮮(ちょうせん)半島から倭(わ)の辺りまで逃げていたら、またいくらか歴史が変わっていたのかもしれません。

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