吉川『三国志』の考察 第125話「吟嘯浪士(ぎんしょうろうし)」

劉備(りゅうび)は自分を捜していた趙雲(ちょううん)らの一団に合流すると、世話になった司馬徽(しばき)に別れを告げた。

その後、新野(しんや)に戻った劉備は劉琦(りゅうき)を見送った帰り、城内でひとりの浪士と出会う。

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第125話の展開とポイント

(01)司馬徽の庵(いおり)

劉備は駆けつけた趙雲と再会。司馬徽に促されると、すぐに暇(いとま)を告げて庵を去る。

十数里来たところで関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)の一軍とも合流。ふたりとも趙雲と同じく、昨夜来、劉備の身を案じ狂奔していたのだった。

(02)新野

劉備は城中の将士を一堂に集め、昨日の襄陽(じょうよう)の会から檀渓(だんけい)を跳ぶまでの一部始終を話す。そして皆の意見に従い、さっそく劉表(りゅうひょう)あての一書をしたため孫乾(そんけん)に届けさせる。

(03)荊州(けいしゅう。襄陽)

劉表は劉備の書簡を読むと、襄陽の会が蔡瑁(さいぼう)の陰謀に利用されたことを知ってひどく立腹。蔡瑁を呼びつけると、頭から襄陽の会における不埒(ふらち)をなじり、彼を斬れと命ずる。

しかし、駆けつけた蔡夫人(さいふじん)の命乞いと孫乾の口添えにより、蔡瑁は処刑を免れた。それでも劉表は心が済まず、孫乾が帰る際に息子の劉琦を新野へ同行させ、今回の件を深く謝罪した。

(04)新野

劉備は、かえって痛み入るお言葉と厚く答礼したが、その折、ふと劉琦は日ごろの煩悶(はんもん)を漏らす。継母の蔡夫人は弟の劉琮(りゅうそう)を世継ぎに立てたいがため、何とか自分を殺そうとしているのだと。

だが劉備には、ただよく孝養を尽くせとしか言えなかった。

翌日、劉琦が荊州へ帰る際、劉備は駒を並べて城外まで送っていく。劉琦は荊州へ帰ることをいかにも楽しまない様子で、劉備に優しく慰められるほど涙ぐんでばかりいた。

劉琦を見送った帰り、劉備が城へ入ろうと街の辻(つじ)まで来ると、布の衣に一剣を横たえ、頭に葛(クズ)の頭巾を頂いたひとりの浪士が、白昼、何か高らかに吟じながら歩いてきた。

劉備は馬から下り、声をかけて誘う。城中へ来てみると浪士は相手が城主とわかり、やや意外な顔をした。劉備は上賓の礼をもって迎え、酒を勧めながら名を尋ねる。

「拙者(わたくし)は潁上(えいじょう)の単福(たんふく)と申し、いささか道を問い、兵法を学び、諸国を遊歴している一介の浪人にすぎません」

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第35回)では、潁川(えいせん)の単福と称していた。

彼はそれ以上の素性も語らず、たちまち劉備が乗っていた馬の話題に転ずる。

劉備が的盧(てきろ)を庭上に引かせると、単福はつぶさに馬相を眺め、「これは千里の駿足(しゅんそく)ですが、必ず主に祟(たた)りをなす駒です。よく今まで何事もありませんでしたな」と言いだす。

さらに、その禍いを未然に除く方法も決してないわけではないと言う。

劉備が教えを仰ぐと、単福は、この馬をしばらく近習(きんじゅう)の士に貸しておくよう言う。その者が祟りを受けた後、取り戻して乗用すれば心配ないと。

井波『三国志演義(3)』(第35回)では単福は劉備に、公(との)が復讐(ふくしゅう)したいと思われる人間に、この馬をお与えになればよろしいと言っていた。

こう聞いた劉備は家臣を呼び、「湯を点ぜよ」とそっけなく言いつける。主人のほうから酒席を片づける意思を表したのだ。

単福が開き直ると劉備は、ここへ客として迎えたのは、きみを志操の高い人とみたからだと言い、先の発言を非難して早く帰るよう促す。

すると単福は愉快そうに手を打ち、実はわざと心にもないひと言を呈し、あなたの心を試してみたまでだと告げる。

劉備は、そういうことなら喜ばしい限りだと応じ、単福を登用。しかも一躍、軍師に挙げ、指揮鞭(しきべん)を授けて兵馬の調練を一任した。こうして単福が練兵調馬の指揮にあたるや、新野の軍勢は小勢ながらも目立って良くなってきた。

(05)許都(きょと)

このころ曹操(そうそう)は北征の業をひとまず終え、都(許都)へ帰っていた。そして次の備えとして、密かに荊州方面をうかがっていた。

その瀬踏みとして一族の曹仁(そうじん)を大将とし、李典(りてん)・呂曠(りょこう)・呂翔(りょしょう)の三将を添え、樊城(はんじょう)への進出を試みる。

こうして樊城を拠点とすると、襄陽や荊州地方への越境行為をあえてぼつぼつとやらせていた。

井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「樊城は今の湖北省(こほくしょう)襄樊市(じょうはんし)。この時期、樊は劉表の支配地域であり、しかも劉備の拠点の新野より南にあるから、曹操軍がここに駐屯することはあり得ない。『三国志演義』の作者の誤認である」という。

また「ちなみに沈伯俊(しんはくしゅん)の校理本『三国演義』(江蘇古籍出版社、1992年)では、樊城を穰城(じょうじょう)の誤りではないかとみなす。穰城は穰県で、新野の北西約30キロに位置する」ともいう。

(06)樊城

呂曠と呂翔が曹仁に献策。新野の劉備がだいぶ兵馬を練っていると告げ、まず先に叩きつぶしておくよう勧める。曹仁はふたりの希望に任せ、5千の兵を貸し与えた。呂曠と呂翔はたちまち境を侵し、新野へ殺到する。

(07)新野

劉備が諮ると、単福は心配いらないと言う。味方を残らず寄せれば2千はあり、敵は5千と聞くから手ごろな演習になるだろうと。

単福が実戦で軍配を執ったのはこのときが初めて。関羽・張飛・趙雲らもよく力戦奮闘したが、彼の指揮こそ誠に鮮やかなものだった。

誘っては分離させ、個々に敵の部隊を掃滅し、初め5千と言われた敵軍も、やがて樊城へ逃げ帰ったのは2千に足らなかったという。

単福の用兵には確固たる学問から成る法があった。決して偶然の天佑(てんゆう)や奇勝でないことは、誰にも認められたところだった。

管理人「かぶらがわ」より

渋味あふれる単福をいきなり軍師に抜てきする劉備。これが見込み違いだったら大変なことになるでしょうが――。まぁ、この人は大当たりですよね。

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