吉川『三国志』の考察 第107話「関羽千里行(かんうせんりこう)」

曹操(そうそう)に別辞を述べられないまま許都(きょと)から去った関羽(かんう)。

曹操は、何度も挨拶に来ていた関羽との対面を避け続けた己を恥じ、軽装のまま許都の郊外まで一行を追いかけ、信義の別れを告げる。

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第107話の展開とポイント

(01)許都

明け方、時刻ごとに見回りに来る巡邏(じゅんら)の一隊が、関羽の屋敷にまるで人の気配がないことに気づく。

奥まった苑内(えんない)に10人の美女が残されていたが、これは以前、曹操から贈られた関羽が、すぐに劉備(りゅうび)の二夫人にそば仕えとして献上したものだった。

(02)許都 丞相府(じょうしょうふ)

その朝、曹操は虫が知らせたか常より早めに起き、諸将を招いて何事か凝議していた。そこへ巡邏から注進が入る。

関羽が寿亭侯(じゅていこう)の印をはじめ、金銀緞匹(だんひつ。練り糸で織った厚い絹織物)の類いをすべて庫内に封じて留め置き、内室に10人の美女を残し、召し使い20余人とともに劉備の二夫人を車に乗せ、夜明け前に北門から立ち退いたとのことだった。

小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は寿亭侯ではなく漢寿亭侯(かんじゅていこう。漢寿は地名)である。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では、曹操の上表により関羽が漢寿亭侯に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。

これを聞くと満座、早朝から興を醒(さ)ましたが、ここで猿臂将軍(えんぴしょうぐん)の蔡陽(さいよう。蔡揚)が追手の役を買って出る。

『三国志演義(2)』(第26回)では蔡陽は将軍とだけあった。

曹操は関羽が残した書状を黙然と読んでいたが、彼の進退を誠に天下の義士らしいとたたえて蔡陽を制した。

すると程昱(ていいく)が、関羽には3つの罪があると述べる。1つは忘恩の罪、2つは無断退去の罪、3つは河北(かほく)の使いと密書を交わせる罪だと。

しかし曹操は、関羽が初めから3か条の約束を求めていたことを挙げ、それを約しながら強いて履行を避けたのは自分であり、彼ではないと言う。

関羽が曹操と交わした約束(条件)については、先の第98話(03)を参照。

曹操は追い討ちをかけてはならないと言ったが、なお程昱や蔡陽は、その寛大をもどかしがっていた。

やがて曹操は立ち上がり、大方の非礼が自分にあることを認め、追いついて後々まで思い出のよい信義の別れを告げようと言いだす。そして閣を下り、駒を呼び寄せ駆け出した。

張遼(ちょうりょう)も路用の金銀と一襲(ひとかさね)の袍衣(ひたたれ)をあわただしく持ち、すぐ後から鞭(むち)を打って続く。

(03)許都の郊外

関羽は自分を呼ぶ声に気づくと、二夫人の車を先へ行かせる。駆けつけた張遼からまもなく曹操がやってくると聞き、警戒した関羽は覇陵橋(はりょうきょう)の中ほどに赤兎馬(せきとば)を立てた。

井波『三国志演義(2)』(第27回)では関羽が馬を立てて橋の上で待ち受けたことは見えるが、その橋が覇陵橋だったとは言っていない。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「現在の河南省(かなんしょう)許昌市(きょしょうし)郊外の石梁河(せきりょうか)に灞陵橋(はりょうきょう)があった」という。また「城外8里にあったため『八里橋(はちりきょう)』とも呼ばれるが、現在はコンクリート製の橋になっている」とのこと。前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい)の霸陵(はりょう)や霸水に架けられていた霸橋とは別の橋だった。

すぐ後から、曹操は許褚(きょちょ)・徐晃(じょこう)・于禁(うきん)・李典(りてん)ら6、7騎の腹心だけを従え駆けてくる。みな甲冑(かっちゅう)を着けず、佩剣(はいけん)のほかは物々しい武器を携えておらず、極めて平和な装いをそろえていた。

曹操は馬上で関羽と別れの挨拶を交わし、路用の金銀を餞別(せんべつ)として贈ろうとする。関羽は容易に受け取らなかったが、曹操が強って二夫人へ献じてもらいたいと言うと、ようやく承知した。

こうして張遼の手から路銀を贈らせると、曹操は別の一将に持たせてきた一領(いちりょう)の錦の袍衣を取り寄せ、これを関羽に贈ろうとする。

関羽は馬上から目礼を送り、小脇にしていた青龍の偃月刀(えんげつとう)を差し伸べると、刃先に袍衣を引っかけて受け取った。この袍衣を肩に打ちかけ、「おさらば」とただひと声を残すと、たちまち北のほうへと立ち去ってしまう。

曹操は惚(ほ)れぼれと見送っていたが、付き従う李典・于禁・許褚などは口を極めて怒りながら無礼をとがめ、あわや駒首をそろえて駆け出そうとした。

曹操は皆をなだめて許都へ帰ったが、その道々も、関羽の心根を見習い、おのおの末代までよき名を残せよ、と訓戒していた。

関羽は二夫人の車を慕って20里余り急いできたが、どこでどう迷ったか、先に行ったはずの車の影は見えない。

とある沢のほとりで四方を見回していると、まだ20歳がらみの弱冠の大将が100人ばかりの歩卒を従え姿を現した。廖化(りょうか)と名乗った壮士はこれまでの経歴を述べ、同類の杜遠(とえん)が二夫人の車を山中へ引き連れてきたことも話す。

関羽が二夫人の安否を案じて気色ばむと、廖化は話を続け、二夫人を解放しなかった杜遠を刺し殺し、その首を献ずるために待っていたのだと言う。

いったん廖化が山中へ戻り、二夫人の車を伴い山道を下りてくると、関羽は初めて彼の人物を信じた。甘夫人(かんふじん)から廖化の働きを聞き、関羽は改めて深く謝す。

廖化はこれを機に御車(みくるま)の供に加わりたいと言うが、関羽は彼らが山賊であることを憚(はばか)り、扈従(こじゅう)の願いは許さなかった。また、廖化が献じた金帛(きんぱく)も受け取らなかったが、別れ際にこう約した。

「今日のご仁情は必ず長く記憶しておく。いつか再会の日もあろう。関羽なり、わが主君なりの落ち着きを聞かれたら、ぜひ訪ねてまいられよ」

(04)河北へ向かう関羽一行

3日目の夕方、関羽らは一軒の民家を見つけ、その家に泊めてもらうことになる。

主の老翁は胡華(こか)と言い、桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉)のころに議郎(ぎろう)まで務めた隠士だった。

胡華は、息子の胡班(こはん)が滎陽太守(けいようたいしゅ)の王植(おうしょく)の従事官(じゅうじかん)をしていると話す。そして、やがてその道も通るだろうからと、紹介状を書いてくれる。

翌朝、関羽らは胡華の家を発った。

管理人「かぶらがわ」より

ついに許都を離れた関羽一行。自分の態度を悔い、信義の別れを告げる曹操。これで許都シリーズはひと区切りですが、まだまだ関羽の活躍が続きます。

で、一緒に山賊をやっていたというふたり。このあと息の長い活躍を見せる廖化と、ポッと出てパッと消えてしまう杜遠。こういった対比の描写は容赦がないですね……。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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