吉川『三国志』の考察 第255話「白帝城(はくていじょう)」

新たな呉軍(ごぐん)の総司令官として猇亭(おうてい)に着任した陸遜(りくそん)は、出撃したがる年長の諸将を粘り強く説得して引き留め、蜀軍(しょくぐん)を殲滅(せんめつ)する機会をうかがっていた。

そして劉備(りゅうび)が水軍に軸足を移すと、長く延びる蜀の陣線を見た陸遜は、にわかに行動を起こす。彼の遠大な計略が発動するや、戦場は火の海となり、劉備は敗走を重ねて白帝城へ逃げ込む。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第255話の展開とポイント

(01)猇亭 劉備の本営

敵を誘うに、漫罵愚弄(ぐろう)し怒りを駆ろうとするのは、もう兵法として古すぎる。

そこで、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して釣り出しを策す。だが呉は土龍(モグラ)のように、依然として陣地から一歩も出てこない。

一木の日陰もない広野のこと。夜はともかく、昼の炎暑は草も枯れ、土も燃えるようだった。それに水は遠くに求めなければならないし、病人は続出するし、士気はだれてどうにも収拾がつかなくなった。

ついに劉備も、この布令をなさずにはいられなくなる。

「一応、ほかへ陣を移そう。どこか涼しい山陰か、水のある谷間へ」

すると馬良(ばりょう)が注意して言った。

「一度にこれだけの軍勢を退いては大変です。必ず陸遜の追撃を食いましょう」

これに劉備が応える。

「案ずるなかれ。弱々しい老兵を殿軍(しんがり)に残し、偽り負けて逃ぐるをば、もし敵が図に乗って追ってきたら、朕自ら精鋭を伏せ、これを討つ。敵に計ありと悟れば、うかと長追いはしてこないだろう」

諸将は、それこそ天子(てんし。劉備)の神機妙算なりとたたえたものの、まだ馬良は不安そうで、さらにこうも勧めた。

「このごろ、諸葛孔明(しょかつこうめい。孔明は諸葛亮〈しょかつりょう〉のあざな)はお留守の暇(いとま)に、折々漢中(かんちゅう)まで出てきて、諸所の要害を、いよいよ大事と固めている由です」

「漢中といえば遠くもありませんから、大急ぎでこの辺りの地形や布陣を図に写し、これを使いに持たせ、軍師の意見をご下問になられてみたうえ、しかるべしとあれば、その後で陣をお移しあそばしても遅くはないかと思われますが」

劉備は微笑して応え、馬良に使いを言いつける。

「朕も兵法を知らぬ者ではない。遠征の途に臨んで、何でいちいち孔明に問い合わせを出しておられよう」

「しかし、折よく孔明が漢中まで来ておるときであるから、汝(なんじ)が行って朕の近況を伝え、また戦の模様を語っておくのもよかろう。そして何か意見があれば聞いてまいれ」

馬良は承り、敵味方の布陣から地形などを克明に写していく。紙の上に描き取ってみると、それは四至八道という対陣になっていた。

(02)猇亭 陸遜の本営

翌日、呉の物見は、山上から鞠(まり)の転がるように駆け下り、韓当(かんとう)と周泰(しゅうたい)に急報した。

「蜀の大軍が、次々と遠い山林のほうへ陣を移しだしました」

ふたりはすぐに大都督(だいととく)の陸遜の陣まで馬を飛ばし、先ほど受けた急報を告げる。

陸遜は何とも言えぬ喜びを明るい眉に表したが、ふたりを伴うと、馬を並べて高地へ駆けた。

(03)猇亭

陸遜は広野を一望し、感嘆の声を放つ。兵を退くのは進む以上の技術を要するという。いま見れば、蜀の大軍は掃いたように、もうあらかた引き揚げていた。呉の陣線の前には、殿軍の一隊が1万足らず残っている。

周泰は絶好機を逃したと言って地団太を踏むが、陸遜はそれすら抑え、「いや、もう3日待ちたまえ」と言った。

憤然とする周泰に、なお陸遜は、鞭(むち)を上げたまま彼方(かなた)を指して説明する。

「そこの谷間や先の山陰などに、陰々たる殺気がある。思うに蜀の伏兵だろう。さるを殿軍に、弱体の老兵ばかり1万も残して遠くに退いたのは、我を誘わんとする、見え透いた謀(はかりごと)に違いない」

そして一同の出撃を固く禁じ、そのまま本陣へ帰ってしまう。

人々は陸遜の怯懦(きょうだ)を笑い、もうなるようにしかならない戦と、匙(さじ)投げぎみに部署に就いていた。

その足元に付け込んでか、蜀の老兵は、呉の陣前でわざと鎧(よろい)を解いて昼寝したり、大欠伸(おおあくび)をしてみせたり、散々な悪口を放ったりして、揶揄(やゆ)し続ける。

(04)猇亭 陸遜の本営

韓当や周泰ら諸将は、3日目にまた陸遜のところへ詰めかけたが、依然として出撃はない。

周泰が食ってかかるように言った。

「もし蜀勢がことごとく、遠く退陣してしまったら何となさる?」

陸遜はひと言の下に答える。

「それこそわが輩の願うところで、大慶このうえもない」

人々は大いに笑う。なるほど、それを唯一の願いとしているのでは無理もない。あきれ果てた大都督よと、その人の目の前で手を叩くというありさまだった。

ここへまた、物見隊の一将が来て報告する。

「今朝方の靄(もや)深きうちに、敵の老兵ども1万も、いつの間にか殿軍の地を退いて消え失せました。まもなく谷間の底地から、約7、8千の蜀勢が現れ、黄羅(黄色い薄絹)の傘蓋を囲み、悠々と遠くへ退いていくのが見えました」

諸将は劉備を討ち漏らしたと口惜しがったが、陸遜は敵の意図を看破してみせ、もう10日も出ないうちに、今度こそ蜀軍は四分五裂の滅亡を遂げると言う。

これにもみな嘲言を弄したが、陸遜は即座に一書をしたためる。呉王(ごおう)の孫権(そんけん)に上すもので、この書中にもこう書いていた。

「蜀軍の全滅は近きにあります。大王以下、建業城中の諸公も、もはや枕を高うして可なりと信じます」

(05)長江(ちょうこう)の江岸

蜀軍では、主力を水軍に移し始めていた。陸路には猇亭の要害があり、陸遜の重厚な陣線がある。いずれも粘り強く頑張るので、いたずらに日を費やすのみと、やや劉備は急を求め始めたのだった。

ここ数日間、蜀の軍船は続々と長江を下り、江岸の至るところの敵を追っては、その跡に基地とする水寨(すいさい)を築いている。

(06)洛陽(らくよう)?

蜀と呉の開戦は、魏(ぎ)を喜ばせていた。今や魏の諜報(ちょうほう)機関は最高の活躍を示している。

ここでは曹丕(そうひ)がどこにいたのかよくわからなかった。洛陽ではなく許都(きょと)かも?

あるとき曹丕は、天を仰いで笑う。

「蜀は水軍に力を入れ、毎日100里以上も前進しているというが、いよいよ玄徳(げんとく。劉備のあざな)の死に際が近づいてきた」

側臣が怪しんで尋ねると、さらに曹丕は言った。

「わからんか、お前たちには?」

「蜀軍は陸に40余か所の陣屋を結び、今また数百里を水路に進む。この延々700里にわたる陣線に、その大軍を配すときは、蜀の75万の兵力も極めて薄いものになってしまう」

「加うるに、陸遜の陣をおいて水路から突き出したのは、玄徳の運の窮まるものと言うべきだ」

「古語にも言う。『叢原(そうげん)ヲ包ンデ屯(たむろ)スルハ兵家ノ忌(いみ)』と。彼はまさにその忌を犯したものだ。見よ、近いうちに蜀は大敗を招くから」

だが群臣は信じきれず、かえって蜀の勢いを恐れ、「国境の備えこそ肝要ではありませんか?」と言った。

曹丕は否と断言したうえ、掌(たなごころ)を指すごとく情勢を説く。

「呉が蜀に勝てば、その勢いで蜀へなだれ込むだろう。このときこそ、わが兵馬が呉を取るときだ」

やがて曹仁(そうじん)に一軍を授けて濡須(じゅしゅ)へ向かわせ、曹休(そうきゅう)に一軍を付けて洞口(どうこう)方面へ急がせ、曹真(そうしん)に一軍を与えて南郡(なんぐん)へ遣った。

かくて三路から呉をうかがい、ひたすら待機させていたのは、さすがに彼も曹操(そうそう)の血を受けた者であった。

(07)漢中

馬良が着いたとき、ちょうど諸葛亮も漢中に来ていた。写してきた絵図を取り出し、つぶさに戦況を伝える。

「ご意見もあらば伺ってこいとの天子の仰せでありました」

「わが軍は700余里の間、江に沿い、山に拠り、今や40数か所の陣地を結び、その先陣は舟行続々呉へ攻め下っている勢いにあります」

しまったと言わぬばかりに、諸葛亮は膝を打って嘆じた。

「あぁ、いけない! 誰がそのような作戦をお勧めしたのか」

馬良が、天子御自らあそばした布陣だと答えると、諸葛亮は落胆しながら言う。

「水流に任せて攻め下るは易く、水をさかのぼって退くは難い。これ一つ。また、叢原を包んで陣屋を結ぶは兵家の忌。これ二つ。陣線長きに失して力の重厚を欠く。これ三つ」

「そうだ、馬良。足下(きみ)はすぐ大急ぎで戦場へ帰れ。そして私の言を奏して、禍いを避けたまえと、極力お諫め申し上げてくれ」

馬良が、もしその間に陸遜の軍に敗れていた場合の処置を尋ねると、諸葛亮は、事急に迫った場合は、天子を白帝城に入れ奉るようにと伝える。

先年、自分が蜀に入るとき、後日のため、そこの魚腹浦(ぎょふくほ)に10万の兵を伏せておいたとも。

馬良は何度も魚腹浦を往来していたためにいぶかるが、諸葛亮は、今にわかると言っただけ。一章をしたためると諸葛亮は成都(せいと)へ帰り、馬良も再び戦場へ馬を飛ばす。

(08)猇亭

すでに陸遜は行動を開始していた。機は至れりと諸軍を分け、江南(こうなん)第四の蜀軍を捕捉にかかったのである。そこは蜀の傅彤(ふとう)が守っていた。

ここへの夜襲に際し、韓当・周泰・凌統(りょうとう。淩統)などがこぞって先鋒を志願したものの、陸遜は何か思う旨があるらしく、特に淳于丹(じゅんうたん)を指名して5千騎を授け、徐盛(じょせい)と丁奉(ていほう)に後詰めを命じた。

その夜、淳于丹は蜀陣を急襲したが、思いもかけぬ南蛮勢(なんばんぜい)や敵将の傅彤の武勇に撃退され、ひどい損害を受ける。一命まで危ういところを、辛くも後詰めの徐盛と丁奉の両軍に救われて帰った。

(09)猇亭 陸遜の本営

陸遜は淳于丹をとがめず、むしろ自分の罪だと言い、奇襲の真意を明かす。

「昨夜の奇襲は、蜀の虚実を知るため、淳于丹をもって、ちょっと当たらせてみただけにすぎない。しかしそのため、わが輩は蜀を破るの法を悟った」

すかさず徐盛が尋ねると、陸遜は答えた。

「それは今、天下に孔明よりほかに知る者はないだろう。幸いに、この戦陣に孔明はいない。これ天がわが輩に成功を与えるものだ」

陸遜は螺手(らしゅ)を呼び、貝を吹かせる。陣々大小の将士が集合すると、軍令壇に立って大号令を下した。

「われ戦わぬこと百数十日、天雨を注がぬこと月余。今や機は熟し、天の利、地の利、人の利、ことごとく我にあり」

「まず朱然(しゅぜん)は、茅柴(カヤシバ)の類いを船手に積み、江上に出て風を待て。おそらく明日の午(うま)の刻(正午ごろ)を過ぎるころから東南の風が波浪を巻くだろう」

「風起こらば江北(こうほく)の敵陣へ寄せ、硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を投げ、彼の陣々を風に従って焼き払え」

「また韓当は一軍をひきいて、同時に江北の岸へ上陸する。周泰は江南の岸へ攻めかかれ。そのほかの手勢は臨機にわが輩の指図を待て。かくて明夜を出でず、玄徳の命は呉の手の内のものとなろう。いざゆけ!」

陸遜が大都督に就任して以来、このように積極的な命令が発せられたのは初めてである。朱然・韓当・周泰などもみな勇躍して準備に就いた。

(10)猇亭 劉備の本営

果たせるかな、翌日の午の刻ごろから、江上一帯に風波が立ち始める。その折、蜀の中軍に高々と翻っていた旗が折れた。

劉備が眉をひそめると、程畿(ていき)が奉答する。

「これ、夜襲の兆(しるし)と古くから言われています」

そこへ江岸を見張っている番将が来て知らせた。

「昨夜から江上に、無数の敵船が漂って、この風浪にも立ち去りませんが――」

劉備は擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)の計だとし、令なきうちはみだりに動くなと、舟手に厳戒しておくよう伝えさせる。

続いて、呉軍の一部が、東へ東へと移動しているとの知らせが届く。劉備は誘いを試みているものだとし、まだ動く時機ではないと判断。

やがて日没のころ、江北の陣地から煙が上がる。失火だろうと眺めていると、少し下流の陣からも火が上がった。

劉備は関興(かんこう)に見回りを命ずるが、宵になっても消えない。北岸ばかりでなく、南岸にも火災が起こる。そこで張苞(ちょうほう)を走らせて、万一の助けとした。

「や、や。ご本陣の近くにも!」

誰かが不意に絶叫した。乾ききっている木の葉がちりちりと焼けだしている。それは劉備の陣座する、すぐ近くの林からだった。

彼の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)が狼狽(ろうばい)を起こしたときは、敵か味方か、見分けもつかぬ人影が、右往左往、煙の中を駆け乱れていた。

「敵だっ! 呉兵だっ!」

劉備の目の前で、もう激しい戦闘が描き出される。彼は諸人に囲まれ、馬の背に押し上げられていた。

けれど、味方の馮習(ふうしゅう)の陣まで走る間に、戦袍(ひたたれ)の袖にも馬の鞍(くら)にも火がつく。いや走る大地の草も空の梢(こずえ)も火となっている。

(11)敗走中の劉備

ところが、たどり着いた馮習の陣も、真っ黒な混乱の最中だった。ここでは火ばかりでなく、呉の徐盛の襲撃もあり、猛烈な炎を味方として攻め立てていたのである。扈従(こじゅう)の声に従い、劉備は炎と煙の中を、白帝城を指して逃げた。

馮習は十数騎を連れて追い慕ったようだったが、途中で徐盛に出会い、部下もろとも討たれてしまう。

劉備は、前の丁奉と後ろの徐盛に挟まれて進退窮まる。しかし折よく傅彤や張苞が駆けつけたため、だんだんと厚い囲みに守られ、馬鞍山(ばあんざん)を指して逃げ落ちた。

(12)馬鞍山

劉備は馬鞍山の頂まで逃げ上ったところで、ようやく人心地を呼び戻す。それでも高きから一方の闇を見渡せば、驚くべし、延々700里にも連なる火炎の車輪陣が、地を焼き、空を焦がしている。ここに立って初めて、陸遜の遠大な火計の全貌を知ったのだった。

時すでに遅く、劉備が天を仰いで痛嘆したとき、陸遜の軍勢は馬鞍山のふもとを厚く取り巻いている。そしてこの一山も火と化してしまうつもりか、諸方の山道から火をかけた。百千の大火龍は宙を臨み、よじ登ってくる。

金鼓の嵐、声の津波、劉備を囲む一団は立ち往生のほかなかった。しかし血気な関興や張苞などがそばにある。みな火炎の薄い一道から、江岸に出るふもとへ向かってしゃにむに駆け下る。

だが、炎の見えないこの道には陸遜軍の伏兵が待っていた。突破して危地は抜けたものの、伏兵は数を加えてどこまでも追撃してくる。

「火攻めの敵は火で防げ!」

誰かがとっさの機知で、道芝に火を付けた。急場の支えに足りない火勢なので、蜀軍は矢を折り、鎧を投げ込み、旗竿(はたざお)まで焼いて助けとする。そのため火は木々の枝へ登り、一度に猛烈な火力を現し、追撃してくる呉兵を食い止めることができた。

(13)敗走中の劉備

そうして江岸へ出るや、また新手の敵に出会う。呉の朱然が控えていたのである。

引き返して谷へ避けると、鬨(とき)の声とともに、谷底から陸遜の旗が湧いてきた。劉備が絶望の叫びを放ったとき、再び思いがけない援軍が現れる。趙雲(ちょううん)だった。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第84回)では、ここで朱然が趙雲に刺し殺されていた。ただしこれは『三国志演義』の創作で、吉川『三国志』では採られていない。なお史実の朱然は、呉の赤烏(せきう)12(249)年3月に68歳で死去している。

どうしてここへ趙雲が来たかといえば、彼の任地の江州(こうしゅう)は漢中やどこよりも戦場に近かった。

諸葛亮が馬良と別れて成都へ帰る際に、「即刻行って、天子を助けよ」と、一書を飛ばしておいたものと思われる。いずれにせよ、趙雲の来援は地獄に仏だった。

が、それにしても何と変わったことだろう。かつて劉備が白帝城に入ったときは、75万の大軍が駐屯していたものなのに、今はわずか数百騎の供しか扈従していなかったという。

もっとも趙雲や関興、張苞らは、劉備が白帝城に入るのを見届けると敗軍の味方を糾合すべく、城外からもとの道へ引き返していた。

管理人「かぶらがわ」より

正史『三国志』には、劉備がこの東征に動員した兵力が書かれていないようですが……。75万というのは『三国志演義』の創作、そして吉川『三国志』の踏襲でしょうね。

とはいえここでの大敗が、蜀に暗い影を落とすことになったのは確か。仇(あだ)討ちに逸(はや)るあまり、柄にもなく自ら采配を振るったりして――。呉の自称「書生」以下の軍略しか持ち合わせていないことを、思いっきり天下に示してしまった劉備でした。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました