吉川『三国志』の考察 第212話「柑子と牡丹(こうじとぼたん)」

ついに魏王(ぎおう)となった曹操(そうそう)は、さっそく鄴都(ぎょうと)に魏王宮を造営する。これが完成をみると、祝宴のため各地の名産品が集められた。

呉(ご)からは、温州(うんしゅう)の柑子(こうじ。蜜柑〈ミカン〉)40荷が送られることになった。だが、柑子を背負って運ぶ人夫たちの前にひとりの老人が現れる。

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第212話の展開とポイント

(01)許都(きょと)

呉に年々の貢ぎを誓わせてきたことは、魏の遠征軍にとって、赫々(かっかく)たる大戦果といえる。

まして漢中(かんちゅう)の地も版図に加えられたので、都府の百官は曹操を尊び、「魏王の位に即いていただこうじゃないか」と、寄り寄り議していた。

侍中(じちゅう)の王粲(おうさん)は、曹操の徳を頌(しょう)した長詩を賦(ふ)し、これを侍側の手から彼に見せたりした。

曹操も王位に昇ろうという色を示していたものの、諸人の議場において、尚書(しょうしょ)の崔琰(さいえん)が媚態派(びたいは)の人々をこう諫めた。

「ご無用になさい。そんな馬鹿なことをお勧めするのは――」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(尚書は)後漢(ごかん)の事実上の中央政府である尚書台の三等官。俸禄は600石(せき)だが実権は大きい」という。

怒った諸官と崔琰は大喧嘩(おおげんか)になり、このことが媚態派の佞臣(ねいしん)から曹操の耳に聞こえた。憤怒した曹操は崔琰を投獄。崔琰は獄に引かれながらも大声で罵り散らす。

曹操が廷尉(ていい)に「やかましいから黙らせろ」と命ずると、崔琰の声はもう聞こえなくなった。廷尉が棒をもって獄中で打ち殺してしまったのである。

建安(けんあん)21(216)年5月、もろもろの官吏や軍臣は献帝(けんてい)に奏し、詔(みことのり)を仰いだ。

やむなく献帝は鍾繇(しょうよう)に詔書の起草を命じ、曹操を冊立して魏王に封じようとした。詔に接すると、曹操は固辞して辞退の意を上書する。

献帝は重ねて別の一詔を下す。そこで初めて「聖命もだしがたければ(聖命を無視することはできないので)――」と、曹操は王位を受けた。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第68回)では、曹操は心にもなく三度辞退したが、辞退を許可しないとの詔も三度出されたので、ようやく魏王の爵位を受けたとある。

12旒(りゅう)の冠に金銀の乗用車。すべて天子(てんし)の儀を倣い、出入りには警蹕(けいひつ)し、ここに彼の満悦な姿が見られた。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(12旒の冠について)旒は白玉を連ねて冠の前後に垂らすもの。天子と王は12旒、三公と諸公は7旒」だという。

(02)鄴都

さっそく鄴都には魏王宮が造営された。ここにはすでに玄武池(げんぶち)がある。曹操の親衛隊はこの池で船術を練り、弓馬を調練していた。雄大な魏王宮は玄武池のさざ波に映じ、この世のものと思えなかった。

曹操には4人の子がある。みな男子だった。曹丕(そうひ)、曹彰(そうしょう)、曹植(そうしょく)、曹熊(そうゆう)の順だ。

わかりやすくするために息子を4人としたのだろうが、史実の曹操には25人の息子がいた(もちろん、建安21〈216〉年の時点では生まれていない者もいる)。

また、先の第206話(02)で娘が献帝の皇后に立てられていることからもわかるが、曹操には息子だけでなく娘もいた。ちなみにここで名の挙がった4人の息子は、みな卞氏(べんし。後の武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)の子で同母兄弟だった。

けれども大妻(正室)の丁夫人(ていふじん)の子ではなく、側室から出た者ばかりである。このうち曹操が密かに世継ぎとして考えていたのは、3番目の曹植だった。

曹植はあざなを子建(しけん)といい、幼少から詩文の才に長け、頭脳は明らかで甚だ上品な風姿を持っている。

嫡男の曹丕はこれを不満に思い、中大夫(ちゅうたいふ)の賈詡(かく)をそっと招いて、何かと相談した。賈詡は一策を勧める。

中大夫については先の第139話(02)を参照。ただ、そこでは中太夫とあったので、両者が同義なのかイマイチわからず。

その後、曹操が遠い軍旅へ発つとき、曹植は詩を賦して父との別れを惜しんだ。だが曹丕は賈詡に言われた通り、ただ城外に立って涙を含み、父が前を通るのを眸(ひとみ)を凝らして見送った。

曹操は後で考えた。

「詩は巧み、珠玉の字を連ねているが、曹植のその才よりも、曹丕の無言のほうが、もっと大きな真情を持っているのではないか?」

それから彼の子を見る目が、また少し変わった。

以後も曹丕は父の近習(きんじゅう)に特に目をかけ、金銀を与えたり徳を施したり、歓心を得ることに抜かりなく努めた。

そのため「御嫡男にはもう仁君の徳を自然に備えておいであそばされる」と、もっぱら評判はよかった。

やがて曹操も魏王の位に昇ると、世継ぎのことが差し迫った問題になってくる。そこであるとき、思い余って賈詡を召した。

「曹丕を跡に立てるべきだろうか? それとも曹植がよかろうか?」

賈詡は黙然としたままで、あえて明答を欲しないような顔色だった。が、再三問われるに及び、ただこう答えた。

「それは私におただしあるよりは、先に滅んだ袁紹(えんしょう)や劉表(りゅうひょう)などがよいお手本ではありませんか?」

曹操は大いに笑って心を決める。ほどなく「嫡子曹丕ヲ以テ王世子ト定ム」と発表した。

(建安21〈216〉年の)冬10月、魏王宮の大土木も竣工(しゅんこう)した。完成を祝う宴のため、府から諸州へ人を遣り、「おのおの特色ある土産(どさん)の名物の菓木珍味を何くれとなく献上し、賀を表すように」と布達した。

5月に魏王となり、10月に王宮が竣工するのは、いかにも突貫工事な感じ。だが井波『三国志演義(4)』(第68回)でも、5月に魏王の話が出て、10月には魏王宮が落成したとあった。

(03)柑子(蜜柑)を運搬中の呉の人夫たち

呉の福建(ふっけん)は、茘枝(レイシ。中国南部に産する果樹。実は肉が白くて甘い)と龍眼(りゅうがん)の優品を産し、温州は柑子の美味が天下に有名である。魏王の令旨を受け、呉では温州柑子40荷を、はるばる人夫に担わせて都(鄴都)へ送った。

井波『三国志演義(4)』(第68回)では、(温州の)大きな蜜柑を40担余り選ばせ、夜を日に継いで鄴郡に送り届けさせたとある。

井波『三国志演義(4)』の訳者注によると、「1担は100斤。三国時代の度量衡で1斤は約220グラム。40担は約880キログラム」だという。

舟行馬背、また人の背。40荷の柑子は、ようやく鄴都の途中まで来た。

そして、ある山中で人夫の一隊が荷を降ろして休んでいたところ、忽然(こつぜん)と、片目は眇(すがめ)、片足はびっこという奇異な老人が来て話しかけた。

「ご苦労さまだな。みな疲れたろうに」

老人は白い藤の花を冠に挿し、青い色の衣を着ていた。

人夫のひとりが冗談で言う。

「爺(じい)さん助けてくれ。まだ千里もあるんだ」

すると老人は本気になり、ひとりの人夫の荷を担った。さらにほかの数百人の仲間にも言う。

「お主らの荷は、みなわしが担ってやるぞ。わしのおる限り空身も同様じゃ。さあ続いてこい」

老人は風のように先へと走りだす。一荷でも失っては大変と、みなあわてて続く。ところが彼の言った通り、荷を担いでも本当に身軽のようで、少しも重さを感じない。疑い怪しまぬ者はなかった。

別れ際、宰領が素性を尋ねた。老人は答えて言う。

「わしは魏王の曹操と同郷の友で左慈(さじ)、あざなを元放(げんほう)といい、道号(道士の法名)は烏角先生(うかくせんせい)とも呼ばれておる。曹操に会ったら話してごらん。覚えているかもしれないから」

史実の左慈は廬江郡(ろこうぐん)の出身で、曹操は沛国(はいこく)譙県(しょうけん)の出身。なのでふたりは同郷の友とはいえない。ただ井波『三国志演義(4)』(第68回)でも、左慈が人夫を監督する役人に向かい、(自分は)魏王(曹操)の郷里の昔なじみと告げていた。

(04)鄴都 魏王宮

温州柑子が届いたと聞くと、曹操は大いなる一個を盆から取って割った。しかし、柑子の実は空だった。怪しみながら3つ4つと裂いてみたが、どれもみな殻ばかりでむなしい。

呉の奉行(ぶぎょう)をただすよう言うが、奉行はおののくばかり。ただ思い当たることとして、左慈という奇異な老人に出会った話をした。

そこへ、目通りを願う老人が来ているとの知らせが届く。召し入れてみるとその左慈で、すぐに曹操は柑子の科(とが)を責めた。

すると左慈は1、2本しかない前歯を出して笑いながら、「そんなはずはない。どれどれ」と、自分で柑子を割ってみせる。芳香の高い果肉は、彼の手から甘い雫(しずく)をこぼした。

曹操は柑子を勧められるが、まず毒味をせよと言いつける。左慈は笑って答えた。

「柑子の美味を満喫するなら、手前はひと山の柑子の樹の実を、みな食べなければ収まりません。願わくは酒と肉を頂きたいもので……。柑子は口直しに後で頂きます」

曹操は酒5斗に、大きな羊を丸焼きのまま銀盤に供えて食らわせる。左慈はぺろんと平らげ、まだもの足らない顔をしていた。

曹操もやや言葉を和らげ、ご辺(きみ)は仙術でも得た者でないかと尋ねた。これに左慈が答える。

「郷を出てから西川(せいせん。蜀〈しょく〉)の嘉陵(かりょう)へさまよい、峨眉山(がびざん。峨嵋山)に入って道を学ぶこと30年。いささか雲体風身の術を悟り、身を変じ、剣を飛ばし、人の首を取ることなど、今はいと易きまでになり得ました」

「ところで、大王の今日を見るに、はや人臣の最高を極め、これ以上の人欲は人間の地上では望むこともないでしょう」

「どうじゃな、ここでひとつ一転して官途から退き、この左慈の弟子となり、ともに峨眉山に入って、無限に生きる修行をなさらんか?」

曹操は一理あると言うが、まだ天下は本当に治まっていないうえ、朝廷でも自分に代わって扶翼し奉る人がいないとも言った。これを聞いた左慈が、また言う。

「そのへんはご心配ないでしょう。劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備〈りゅうび〉のあざな)は天下の宗親。彼に任せれば、大王がおられるよりも万民は安んじ、朝廷もご安心になろう」

見る見るうちに曹操の顔は激色に焦(や)きただれる。有無を言わせず、武士たちは左慈を縛めて獄へ放り込んだ。

(05)鄴都 魏王宮の牢獄(ろうごく)

数十名の獄卒は代わるがわる拷問したが、獄庭には左慈の笑い声ばかりが聞こえた。「このうえは眠らせるな」と、鉄の枷(かせ)を首にはめ、両足首を鎖で縛り、牢屋の柱に立て縛りにしておく。

ところが少し経つと、すぐに快げな高鼾(たかいびき)が漏れてくる。怪しんでのぞいてみると、鎖も鉄の枷も粉々に解き捨て、左慈は悠々と身を横にしていた。

曹操はこれを聞き、「食水を与えるな」と、一切の摂り物を禁じた。しかし7日経っても10日経っても、血色は衰えるどころか、かえって日々元気になっていく。

「いったい汝(なんじ)は魔か? 人間か?」

ついに獄から出して曹操が尋ねると、左慈は呵々(かか)と哄笑(こうしょう)して答えた。

「1日に1千疋(びき)の羊を食べても飽くことは知らないし、10年食わずにいても飢えることは決してない。そういう人間を捕まえて、大王のしていることは、まったく天に向かって唾するようなものですよ」

(06)鄴都 魏王宮

魏王宮落成の大宴の日が来た。国々の美味、山海の珍味、調わざるはなく、参来の武人百官は雲か虹のごとく、魏王宮の一殿を埋めた。

このとき高い木履をはき、藤の花を冠に挿した乞食のような老人が、場所もあろうに宴の中へ突忽として立ち、「やあ、おそろいだね」と、馴(な)れ馴れしく諸官を見回した。

曹操は、今日こそこの曲者を困らせてやろうと考え、また客の座興にもしてやろうと思い、「こら、招かざる客。汝は今日の賀に何を献じたか?」と言った。

すると左慈は、卓の花を献ずると言う。そこで曹操が牡丹(ボタン)を求めると、左慈はプッと唇から水を噴く。とたんに嬋娟(せんけん)たる牡丹の大輪が、花瓶の口にゆらゆら咲いた。

井波『三国志演義(4)』(第68回)では、左慈が牡丹を出してみせる前に曹操の求めに応じ、白壁に描いた一頭の龍から羹(あつもの。野菜や肉を入れた熱い吸い物)に使う肝を取り出していた。

管理人「かぶらがわ」より

左慈の名は、正史『三国志』では裴松之注(はいしょうしちゅう)の中に見えています。

なお『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、左慈が曹操に戯れた話は、葛洪(かつこう)の『神仙伝(しんせんでん)』に見えるということです。

当然、これらの話に大いに手を加えてはいるのでしょうけど、小説に変わった色合いを添えていることも確か。禰衡(ねいこう)や于吉(うきつ)などと同様に、この左慈も不思議キャラとして異彩を放っていますね。

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