吉川『三国志』の考察 第077話 「許田の猟(きょでんのかり)」

呂布(りょふ)討伐を終えた曹操(そうそう)は、劉備(りゅうび)を伴い許都(きょと)に凱旋する。

その後、許田で盛大な巻き狩りを催し献帝(けんてい)にも出御を仰いだが、この場でわざと尊大な態度を取ってみせ、みなの様子をうかがう。

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第077話の展開とポイント

(01)徐州(じょしゅう)

下邳(かひ)での呂布(りょふ)討伐を終え、曹操(そうそう)の大軍が徐州に着く。すると一群の老民が進み出て、劉備(りゅうび)を「太守(たいしゅ)」としてこの地に留めてほしいと懇願する。

曹操は馬上から、劉備には莫大(ばくだい)な功労があるため、私とともに都(許都〈きょと〉)へ上って天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に拝謁し、やがてまた徐州へ帰ってくるだろうと答え、沿道の民を沸かせた。

(02)許都

日を経て三軍は許都に凱旋。曹操は功ある将士に恩賞を分かち、都民には3日間の祝祭を行わせる。

劉備の旅舎は丞相府(じょうしょうふ)の左に定められ、曹操は特に一館を与えて礼遇の意を示す。のみならず、翌日、朝服に改めて参内する際にも彼を誘い、同じ車に乗って出かけた。

(03)許都 禁中(宮中)

献帝は階下遠く地に拝伏している劉備に特に昇殿を許し、何かと質問した後、さらに先祖についても尋ねる。

彼が涙ぐんでいるのを見て再び問うと、劉備は襟を正し、謹んで答えた。

ここで劉備は、祖先は中山靖王(ちゅうぜんせいおう。劉勝〈りゅうしょう〉)の後胤(こういん)で景帝(けいてい。劉啓〈りゅうけい〉)の玄孫にあたり、劉雄(りゅうゆう)の孫で劉弘(りゅうこう)の子が自分だと答えていた。

また、中興の祖である劉貞(りゅうてい)が涿県(たくけん)の「陸城亭侯(りくじょうていこう)」に封ぜられたとも言っていたが、これにはいくらか説明が要ると思う。

『正史 三国志5』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の訳者注によると「『陸城亭侯』は、おそらく『陸成侯(りくせいこう)』の誤り」だという。

別に参考にした『漢書2』(小竹武夫〈おだけ・たけお〉訳 ちくま学芸文庫)には劉貞が「陸成侯」ではなく「陸城侯(りくじょうこう)」だとあったが、井波先生の注釈どおり『漢書』(地理志〈ちりし〉)には中山国(ちゅうざんこく)に「陸成県」があった。

『三国志』(蜀書・先主伝)には、劉勝の子の劉貞は元狩(げんしゅ)6(前117)年に涿郡の「陸城亭侯」に封ぜられたが、酎祭(ちゅうさい)の献上金不足のかどで侯位を失い、そのままこの地に住むようになったとある。

同じく『正史 三国志5』の『三国志』(蜀書・先主伝)の訳者注によると「(『酎祭』とは)正月元日に造り始め、8月にでき上がる醇酒(じゅんしゅ)を宗廟(そうびょう)に捧げる祭祀。諸侯は金を献上して祭祀を助けることになっていたが、量目不足や品質不良のかどで(前漢〈ぜんかん〉の)武帝(ぶてい。劉徹〈りゅうてつ〉)の時代(前140~前87年)に大量処分があった」という。

『漢書』(王子侯表〈おうじこうひょう〉)の記事から、ここにある「元狩6年」は「元朔(げんさく)2(前127)年」の誤りだろうというのは、同じく井波先生の指摘。加えて「涿郡」は「中山国」の、「陸城亭侯」は(前漢時代には「亭侯」が存在しないため)「陸成侯」の、それぞれ誤りだろうとも。なお、『三国志演義』では「涿鹿亭侯(たくろくていこう)」となっていた。

劉備の話を聞いた献帝は急に朝廷(漢室〈かんしつ〉)の系譜を取り寄せ、宗正卿(そうせいけい)に読み上げるよう命ずる。

ここで出てきた人物のうち、中山靖王の劉勝と陸城亭侯(陸成侯)の劉貞は正史『三国志』に名が見える。一方で沛侯(はいこう)の劉昂(りゅうこう)、漳侯(しょうこう)の劉禄(りゅうろく)、沂水侯(ぎすいこう)の劉恋(りゅうれん)、欽陽侯(きんようこう)の劉英(りゅうえい)については見えない。

なお井波『三国志演義(2)』(第20回)では、劉英以降も、安国侯(あんこくこう)の劉建(りゅうけん)、 広陵侯(こうりょうこう)の劉哀(りゅうあい)、 膠水侯(こうすいこう)の劉憲(りゅうけん)、 祖邑侯(そゆうこう)の劉舒(りゅうじょ)、 祁陽侯(きようこう)の劉誼(りゅうぎ)、 原沢侯(げんたくこう)の劉必(りゅうひつ)、 潁川侯(えいせんこう)の劉達(りゅうたつ)、 豊霊侯(ほうれいこう)の劉不疑(りゅうふぎ)、 済川侯(せいせんこう)の劉恵(りゅうけい)まで名を挙げており、その劉恵の子が(劉備の祖父の)劉雄だとあった。ちなみに正史『三国志』には、劉昂から劉恵までの13人の名は見えない。

劉備が景帝の第七子である中山靖王の裔(えい)だということが明らかになると、献帝は涙を流して喜ぶ。

ここで「劉備の両親の代にはとうとう沓(くつ)売りや蓆(むしろ)織りを生業(なりわい)として……」という記述があった。

『三国志』(蜀書・先主伝)には劉備の父の劉弘が州郡に仕えていたとある。だが、劉備は幼くして父を失ったともあるので、劉弘の死後、沓売りや蓆織りの暮らしに落ちぶれたと見るべきだろう。

献帝は改めて叔甥(おじおい)の名乗りをなし、慇懃礼(いんぎんれい。丁寧な礼?)を執って劉備を便殿に請ずる。そして曹操も交え酒宴を設けた。

献帝の特旨により、劉備は「左将軍(さしょうぐん)」に任ぜられ「宜城亭侯(ぎじょうていこう)」に封ぜられる。それ以来、朝野の人々も彼のことを「劉皇叔(りゅうこうしゅく。天子の叔父にあたる劉備)」と敬称するようになった。

なお井波『三国志演義(1)』(第14回)では、劉備が「征東将軍(せいとうしょうぐん)・徐州牧(じょしゅうのぼく)」に任ぜられ「宜城亭侯」に封ぜられたとあった。なので、爵位の「宜城亭侯」については既出のものと言える。

一方、吉川『三国志』では、その場面に相当する先の第51話(03)において、劉備が正式に「徐州牧」に任ぜられたという描き方にとどめており、将軍号や爵位についての言及はなかった。そのため、ここでの「宜城亭侯」が既出のものとは感じられない。

(04)許都 丞相府

あるとき荀彧(じゅんいく)や劉曄(りゅうよう)が、劉備が将来の大害となることを密かにみな憂えていると、そっと曹操の関心を促す。

曹操は打ち笑って取り合わなかったが、ふたりはなお劉備への警戒を怠らないよう注意した。それでも意にかける様子のない曹操。

井波『三国志演義(2)』(第20回)では、ここで曹操が袁術(えんじゅつ)と親戚である太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)を警戒し、彼を誣告(ぶこく)させたうえ逮捕、投獄して、満寵(まんちょう)に厳しく取り調べさせたとある。

だが、このとき許都に来ていた北海太守(ほっかいたいしゅ)の孔融(こうゆう)から諫められると楊彪を罷免し、追放して故郷に帰らせたのだと。また、大臣である楊彪を勝手に逮捕したかどで、議郎(ぎろう)の趙彦(ちょうげん)が曹操を弾劾する上表を行い、激怒した曹操の命により殺害されたともある。

吉川『三国志』では上に挙げた楊彪や趙彦の話を使っていなかったが、どうも意図的に省かれているように感じられる。

こうして曹操と劉備の交わりは日を追うほどに親密の度を加え、朝廷に出るにも車をともにし、宴楽するにも席をひとつにしていた。

別の日、程昱(ていいく)がやってきて、曹操とふたりきりで密談。程昱はしきりに天下のことを論じた後、覇道の改革を決行するよう求める。

曹操は否定せず、たしなめもしなかったが、「まだ早い」とだけ言った。ここで急に狩猟に行くことを思い立ち、献帝を許田(きょでん)の猟(かり)に誘おうと考える。

(05)許田

献帝は曹操の誘いを断ることができず、やむなく劉備にも随行を命じ、手に彫弓(赤色に金泥を塗った模様のある弓)と金ピ箭(きんぴせん。金+比。鏃〈やじり〉に黄金で象眼を施した矢)を携え、逍遥馬(しょうようば。散策用の馬?)に乗って宮門を出た。

「金泥」は金粉を膠(にかわ)で溶いたもの。

「象眼」は金属の面に模様などを刻み、金や銀をはめ込んだもの。

井波『三国志演義(2)』(第20回)では、献帝が「逍遥」と称される馬に乗っていたとあった。

劉備は献帝の逍遥馬の口輪を取って付き従い、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)らそのほかの面々も弓や戟(げき)を手に扈従(こじゅう)の列に加わる。

曹操は「爪黄飛電(そうこうひでん)」と名付ける馬にまたがり、華やかな装束を身にまとい献帝のそばに寄り添っていた。

こうして猟場に着くと、許田200余里(り)の間を10万の勢子(せこ)で囲ませ狩りが始まる。劉備が献帝の命によって一匹の兎(ウサギ)を射止めた後、不意にひと叢(むら)の荊棘(けいきょく。茨〈イバラ〉)から一頭の鹿(シカ)が躍り出した。

献帝は自ら三度まで矢を射たものの当たらず、曹操に射止めるよう命ずる。すると曹操は献帝の手から弓矢を取り上げ、一矢を放って射止めた。

鹿に立った金ピ箭を見て、公卿(こうけい)百官は献帝が射たものと思い込み、異口同音に万歳を唱える。

そこへ曹操が馬を飛ばしてきて、射たのは自分だと言い、献帝の前に立ちふさがった。そして彫弓と金ヒ箭を両手に差し上げ、群臣の万歳をあたかも自身が受けるような態度を取る。

みなハッと色を失い興を醒(さ)ましてしまったが、劉備の後ろにいた関羽の手は無意識に剣にかかっていた。これに気づいた劉備は身を移して関羽の前に立ち、手を後ろに動かすと、目をもって彼の怒りをなだめる。結局、曹操は献帝に弓矢を返さなかった。

(06)許都 劉備の旅舎

その後のある夜、劉備は関羽を密かに呼び、許田の猟で見せた態度を戒める。関羽は神妙に叱りを受けていたが、やがて、むしろ自分はなぜ制止されたのか、お心を疑うほどだと話す。

劉備は彼の思いに同感のうなずきを見せつつ、ここは深慮すべきときではないかと諄々(じゅんじゅん)と説いた。

管理人「かぶらがわ」より

わざと献帝の権威を損なう振る舞いを見せて群臣の態度をうかがう。いかにも(『三国志演義』における)曹操っぽい話ですけど、これは正史『三国志』には見えないですね。

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吉川『三国志』 (4) 臣道の巻
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