吉川『三国志』の考察 第053話 「母と妻と友(ははとつまととも)」

留守を任せた張飛(ちょうひ)の失態により、徐州(じょしゅう)を呂布(りょふ)に奪われてしまった遠征中の劉備(りゅうび)。

城を捨てて逃げてきた張飛とは合流できたものの、母や妻子が取り残され、その処遇が呂布の手に委ねられていることを知る。

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第053話の展開とポイント

(01)徐州(じょしゅう)

曹豹(そうひょう)の内応を得て劉備(りゅうび)不在の徐州城を占領した呂布(りょふ)。即日、城門の往来や街の辻(つじ)に高札を立て、軍民に平常の務めに復すよう通達した。

また自ら後閣へ出向き、捕虜とした婦女子を手荒に扱わないよう兵士たちを戒める。その際、劉備の老母や夫人、そして幼児(おさなご)たちが留まっていることが判明。100人の士卒を付けて護衛を命ずる。

ここで劉備の子らしき幼児たちが登場していた。この時点では跡継ぎの劉禅(りゅうぜん)が生まれていないはずなので、彼の兄か姉ということになるのか? そのあたりのことがよくわからなかった。

(02)淮陰(わいいん)の河畔

留守の徐州で起きた異変を知らない劉備は、袁術(えんじゅつ)配下の紀霊(きれい)を追い淮陰の河畔まで軍勢を進めていた。

夕暮れごろ、関羽(かんう)が前線の陣地を見回って戻ってくると、歩哨(ほしょう)の兵士が近づいてくる一群の人馬を見つけて騒ぎだす。そのうち、これが張飛(ちょうひ)と味方の18騎だということがわかる。

張飛は劉備の前に平伏し、徐州城を奪われた不始末を報告。禁酒の約を破り大酔したことも正直に申し立て、顔も上げずに詫び入った。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第14回)では、このとき劉備は盱眙(くい)にいたとある。

さらに、劉備の母や妻子まで呂布の手に委ねてきたことがわかると、関羽も急き込んでカッとなる。

泣きながら自分の頭を殴っていた張飛がやにわに剣を抜き自刃しようとすると、劉備は驚いて関羽に止めるよう言う。

劉備は「桃園の義」を持ち出して諭す。ようやく張飛も死のうとした愚を悟り、生きて粉骨砕身することを誓った。

「桃園の義」については先の第9話(01)を参照。

もし劉備の後ろを攻めてくれれば、戦後に糧米5万石(せき)、駿馬(しゅんめ)500頭、金銀1万両(りょう)、緞子(どんす。練り糸で織った厚い絹織物)1千匹(びき)を贈る、という好餌(こうじ)をもって抱き込みにかかったのだった。

井波『三国志演義(1)』(第15回)では、袁術が呂布に提示した条件はほぼ同じだったが、緞子1千匹については綾絹(あやぎぬ。模様を織り出した絹)と緞子1千疋(びき)ということになっている。

呂布は喜んで密盟に応じ、高順(こうじゅん)に3万の兵を授けて盱眙へ急がせた。

井波『三国志演義(1)』(第15回)では、このとき高順は5万の軍勢をひきいている。

(03)臨淮郡(りんわいぐん) 盱眙

これを知った劉備がみなに諮ると、関羽と張飛は口をそろえ、前後の紀霊と高順に対して決戦を挑むよう促す。

しかし劉備は自重すると言って聞かず、評議は逃げ落ちることに一決。大雨の夜、闇にまぎれて盱眙の陣を引き払い広陵(こうりょう)地方へ落ちていった。

その翌日、高順が3万騎をひきいて到着。劉備が逃げ落ちたことを笑うとさっそく紀霊と会見し、袁術が約束した品々をもらい受けたいと申し出る。

紀霊は一存ではどうしようもないと答え、両者はひとまず帰国することになった。

(04)徐州

帰国した高順の報告を受けた後、呂布のもとに袁術から書簡が届く。それには、広陵に潜んでいる劉備の首を速やかに挙げ、先に約束した財宝を購うよう書かれていた。

憤怒する呂布を陳宮(ちんきゅう)がなだめ、劉備を招いて巧みに用い、小沛(しょうはい)の県城に住まわせて時節をうかがうよう勧める。翌日には呂布の使いが広陵へ向かった。

(05)広陵

わずかな腹心とともに広陵の山寺に隠れていた劉備。そこへ呂布の使いがやってくると、彼はみなの反対を押し切り、この招きに応ずることにした。

(06)徐州

日を改めて劉備らが徐州の境まで赴くと、呂布のほうも疑いを解くために、途中まで劉備の母や夫人などの家族を送り届けて対面させる。

そのうえ呂布は城門で出迎え、徐州を返す考えを伝える。だが劉備は承知せず、身を退いて小沛に引きこもった。

ここで劉備の夫人が甘氏(かんし)と糜氏(びし。麋氏)のふたりであることが語られていた。

管理人「かぶらがわ」より

呂布に乗っ取られた徐州へと戻っていく劉備。今度は彼のほうが小沛へ行くことになり、呂布との位置が入れ替わった形。

ただ、この第53話で登場していた劉備の子どもたちについては謎が残りました。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝〈そうじんでん〉)に付された「曹純伝(そうじゅんでん)」には、建安(けんあん)13(208)年に長坂(ちょうはん。長阪)で曹純に捕らえられた劉備のふたりの娘が登場しているのですけど――。

吉川『三国志』はこういった細かいところまで参考にして書かれたのでしょうか? もしそうではないのなら、ここは劉備の母と二夫人の登場にとどめておけばよかったのでは、と思うのですが……。

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吉川『三国志』 (03) 草莽の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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