曹純(そうじゅん) ※あざなは子和(しか)、魏(ぎ)の高陵亭威侯(こうりょうていいこう)

【姓名】 曹純(そうじゅん) 【あざな】 子和(しか)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 174~210年(37歳)

【吉川】 第168話で初登場。
【演義】 第051回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹仁伝(そうじんでん)』に付された「曹純伝」あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の従弟、高陵亭威侯(こうりょうていいこう)

父は曹熾(そうし)だが、母は不詳。曹褒(そうほう)は祖父。曹仁は同母兄。息子の曹演(そうえん)は跡継ぎ。

曹純は初め議郎(ぎろう)として司空軍事(しくうぐんじ。参司空軍事)を務め、虎豹騎(こひょうき)をひきい、205年には曹操の南皮(なんぴ)包囲戦に参加した。この戦いでは袁譚(えんたん)を斬るという手柄を立てた。

207年に曹操が北方の3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東〈りょうとう〉・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸(うがん)を討伐した際、曹純配下の騎兵が単于(ぜんう。王)の蹋頓(とうとん)を生け捕った。

曹純は前後にわたる功績が評価され、高陵亭侯に封ぜられて300戸を賜った。

翌208年には曹操の荊州(けいしゅう)討伐に付き従い、劉備(りゅうび)を長坂(ちょうはん)に追い詰めて娘ふたりを捕らえ、輜重(しちょう)を鹵獲(ろかく)したうえ敗残兵を収容した。

その後、さらに進撃して江陵(こうりょう)を降し、曹操とともに譙に帰還した。

曹純は210年に死去し、息子の曹演が跡を継いだ。(220年に)曹丕(そうひ)が帝位に即くと、威侯の諡号を追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

同母兄の曹仁より20歳ほど若くして亡くなったようですが、曹純も軍事の才能に恵まれていたようです。

曹操の一族には逸材が多く、これが劉備との大きな違いだと思います。劉備は関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)という義兄弟こそ目立つものの、一族という意味では見劣りしますよね。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『英雄記(えいゆうき)』によると、「曹純は14歳の時に父(曹熾)を亡くし、同母兄の曹仁とは別に暮らしていた」ということです。

「父の邸宅を受け継ぎ、裕福で召使いや食客も数百人いたが、規律正しく皆を監督し、郷里の人々から有能だと認められた」とも。

また「学問が好きで学者を敬ったため、多くの学者が彼のもとに身を寄せ、このことから遠近の人々の称賛を得た」ともあります。

曹純は18歳で黄門侍郎(こうもんじろう)となり、20歳の時に曹操に付き従って襄邑(じょうゆう)へ赴き、その地で兵を募りました。そして、それ以後は常に曹操の征伐に付き従うことになったのだと。

「20歳の時……」のくだりは曹操が袁術を追撃していたときのものですから、193年のことになり、ここから曹純の生年が想定できます。

同じく本伝の裴松之注に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、「曹純が指揮した虎豹騎は精鋭ぞろいで、その隊長は100人の将校から選抜されることもあった」ほど。

「曹休(そうきゅう)や曹真(そうしん)も隊長を務めたことがあり、曹純が隊長になると、よく部下たちをかわいがって心をつかんだ」ともあり。

「曹純の死後、担当官吏が曹操に後任の隊長を選ぶように求めたところ、曹操は『曹純ほどの者をどうして再び得られようか』と言い、ついに後任を選ばず、自らその指揮を執ることにした」のだとか。

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