丁儀(ていぎ)

【姓名】 丁儀(ていぎ) 【あざな】 正礼(せいれい)

【原籍】 沛郡(はいぐん)

【生没】 ?~220年(?歳)

【吉川】 第244話で初登場。
【演義】 第079回で初登場。
【正史】 登場人物。

曹丕(そうひ)を恨み曹植(そうしょく)に肩入れ

父は丁沖(ていちゅう)だが、母は不詳。丁廙(ていい)は弟。

196年、曹操(そうそう)は献帝(けんてい)を許(きょ)に迎えたが、このとき丁沖の手紙による教示が役に立った。

曹操は丁沖の進言を徳とし、彼の息子の丁儀が立派な人物だと聞くと、顔も見ないうちから愛娘(まなむすめ。清河公主〈せいかこうしゅ〉)を娶せたいと考える。

しかし、意見を聞かれた五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕が言った。

「女性は容貌を気にするものですが、正礼(丁儀のあざな)は目の具合がよくありません。おそらく彼女は喜ばないでしょうから心配です。伏波将軍(ふくはしょうぐん。夏侯惇〈かこうとん〉)の息子の夏侯楙(かこうぼう)に遣るほうがよろしいでしょう」

曹操はこの意見を容れる。

のち丁儀は召されて「丞相掾(じょうしょうのえん)」となったが、曹操は彼と論議し、その才能に感心。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

そして曹操はこうも言った。

「丁掾(掾の丁儀)は好人物だ。たとえ両目が見えなかったとしても娘を遣るべきだった。しかも彼は(盲目ではなく)斜視なだけではないか。これはわが子(曹丕)が私を誤らせたな」

丁儀のほうも公主を娶れなかったことを恨みに思う。そこで臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植と親交を結び、たびたび彼の優れた才能をたたえた。そのうち曹操が曹植を「太子(たいし)」に立てたいと考え始めると丁儀も賛同する。

217年、最終的に曹操は曹丕を(魏〈ぎ〉の)「王太子」とした。

220年、曹丕が「魏王」を継ぐと、丁儀らを処罰しようと考えた。丁儀は「右刺姦掾(ゆうしかんえん)」に転任させられたうえ、自害するよう圧力を受ける。

それでも丁儀は自害できず、中領軍(ちゅうりょうぐん)の夏侯尚(かこうしょう)に叩頭(こうとう)し哀れみを乞う。夏侯尚は涙を流したものの、彼を助けてやることができない。

ほどなく丁儀は職務にかこつけて逮捕され獄中で死んだ。弟の丁廙を始め、一族の男性も皆殺しにされたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳思王植伝〈ちんしおうしょくでん〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。

父の丁沖が曹操と親しかったことから、息子である丁儀や丁廙も目をかけられることになりました。

もちろん丁儀には才能があったのでしょうけど、毛玠(もうかい)・徐奕(じょえき)・何夔(かき)など、数多くの剛直の士を陥れています。ただ曹丕のほうも、丁儀の目のことに触れたのはよくなかったですね。

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