曹緯(そうい)

【姓名】 曹緯(そうい) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹林(そうりん)の息子、沛王(はいおう)

父は曹林だが、母は不詳。兄弟には曹賛(そうさん)・曹壱(そういつ)がいる。

256年、曹緯は曹林が薨去(こうきょ)したためその跡を継ぎ、沛王に封ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

曹林の息子として名が出てくる曹緯・曹賛・曹壱の兄弟順がイマイチはっきりしませ。曹壱が曹賛の弟だというのは『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・済陽懐王玹伝〈せいようかいおうけんでん〉)にありますが、曹緯はふたりの兄なのか弟なのか?

曹賛が曹玹(そうけん)の跡継ぎとして立てられたのは215年のことで、彼が早くに亡くなって息子もいなかったため、曹丕(そうひ)は(曹賛の)弟の曹壱に曹玹の跡を継がせたということです。

曹賛の没年は書かれていませんが、221年に曹壱が改めて済陽侯(せいようこう)に封ぜられたとあるので、215~221年の間だと考えられます。そして、曹緯が曹林の跡を継いだのは256年のこと。曹賛・曹壱の話からみると、かなりあとの時代になります。

それぞれの母親が、曹林の正室だったのか側室だったのかで話は変わってくると思いますが、年代的に考えれば、曹緯が曹賛・曹壱の弟とみるのが自然でしょうか?

でも、曹緯が曹林の跡を継いだとき相当な年齢だった可能性もないとは言えず――。これは断定しないほうがよさそうですね。

また、『三国志』(魏書・沛穆王林伝〈はいぼくおうりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『嵆氏譜(けいしふ)』によると「嵆康(けいこう)の妻は曹林の娘だった」ということです。

ただし、この記事については確認中。訳書では「嵆康の妻は曹林の子の娘である」となっており、「曹林の娘」とはなっていませんでした。

『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の嵆康に関する記事に説得力があったので、ここは一応「曹林の娘」としておきます。信頼のおける文献で原文を見られれば解決しそうなので、最終的な判断は保留ということで。

追記

嵆康が娶ったのが「曹林の娘」なのか「曹林の子の娘(つまり孫娘)」なのかについて、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)では、「曹林」および「嵆康」の項目に修正が見られました。

曹林の項目では、「嵆紹(けいしょう)の妻は曹林の女(むすめ)である」としてあった部分が「嵆康の妻は曹林の子の女である」に改められており、嵆康の項目では、「曹林の娘を娶った」としてあった部分が「曹林の孫女を娶った」に改められていました。

「嵆紹」は嵆康の息子ですから、この2か所の修正によって疑問が解決したと思います。「嵆康が娶ったのは曹林の孫娘だった」というのが結論。ちなみに、嵆康の父は「嵆昭(けいしょう)」ですけど、(孫の)「嵆紹」と混同しやすそうですよね……。
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