廖立(りょうりゅう)

【姓名】 廖立(りょうりゅう) 【あざな】 公淵(こうえん)

【原籍】 武陵郡(ぶりょうぐん)臨沅県(りんげんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第309話で初登場。
【演義】 第104回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・廖立伝』あり。

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自負心の強さから自滅

父母ともに不詳。

209年、劉備(りゅうび)が荊州牧(けいしゅうのぼく)を兼ねたとき、廖立は召されて従事(じゅうじ)となり、30歳にならない若さで長沙太守(ちょうさのたいしゅ)に抜てきされる。

211年、劉備が益州(えきしゅう)に入ると初め諸葛亮(しょかつりょう)は荊州にとどまっていたが、そこへ孫権(そんけん)の使者が着き、友好の意を伝えてくる。

この際に使者を通じ、劉備配下の士人の中で政治に役立っているのは誰か、という問いかけがあり、諸葛亮は龐統(ほうとう)と廖立の名を挙げた。

215年、孫権配下の呂蒙(りょもう)が荊州の南部3郡(長沙・零陵〈れいりょう〉・桂陽〈けいよう〉)を急襲すると、廖立は長沙から脱出し劉備のところへ逃げ戻る。

しかし劉備は、以前から廖立を認めていたので特に責めることもなく、改めて巴郡太守(はぐんのたいしゅ)に任じた。

219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、廖立は召し還されて侍中(じちゅう)になった。

223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと、廖立は長水校尉(ちょうすいこうい)に転ずる。

だが廖立は心中で、自分の才能や名声は諸葛亮に次ぐものと自負していたため、閑職に移され李厳(りげん)の下位に置かれたことで、いつも怏々(おうおう)として楽しまなかった。

そして、丞相掾(じょうしょうえん)の李邵(りしょう)と蔣琬(しょうえん)が来た折に、過去の劉備や関羽(かんう)の戦略を批判したうえ、現任の重臣も誹謗(ひぼう)する。

報告を受けた諸葛亮の上表により、廖立は庶民に貶(おと)されたうえ汶山郡(ぶんざんぐん)へ流された。それ以後、廖立は妻子とともに農耕をして暮らしたが、234年に諸葛亮が死去したことを伝え聞くと、涙を流して嘆いたという。

のち廖立は配所で死去(時期は不明)したが、彼の妻子は蜀へ帰ることができた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、監軍(かんぐん)の姜維(きょうい)が一軍をひきいて汶山郡を通った際、廖立の配所に立ち寄ったことがあったそうです。

このとき廖立の意気は衰えておらず、その話しぶりも以前と変わらなかったので、姜維の称賛を得たのだとか。これは247年のことかと思われます。その年、汶山郡の平康県(へいこうけん)で蛮族の反乱が起こり、衛将軍(えいしょうぐん)の姜維が軍勢をひきいて討伐にあたりました。

廖立は若くして「長沙太守」に抜てきされていますし、初めのころ諸葛亮から龐統と並ぶ評価を得ていたようですけど――。結局、これは見込み違いだったということでしょうか? 上昇志向と思い上がりは意外にも紙一重なのですね。
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