彭羕(ほうよう) ※あざなは永年(えいねん)

【姓名】 彭羕(ほうよう) 【あざな】 永年(えいねん)

【原籍】 広漢郡(こうかんぐん)

【生没】 ?~?年(37歳)

【吉川】 第197話で初登場。
【演義】 第062回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・彭羕伝』あり。

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労役囚から州の高官まで昇るも、刑死の最期

父母ともに不詳。

彭羕は身長が8尺(せき)あり、甚だ魁偉(かいい)な容貌をしていた。また驕慢(きょうまん)な性格で、人を粗略に扱うことが多かったという。

ただ彭羕は、同郡の秦宓(しんふく)だけは尊敬しており、広漢太守(こうかんたいしゅ)の許靖(きょせい)に秦宓を推薦したこともあった。

彭羕は、州に仕えたものの一介の書佐(しょさ)にすぎず、そのうち益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)に彼の讒言(ざんげん)を吹き込む者が現れる。

これを受けて彭羕は髠鉗(こんけん。髪を剃〈そ〉ったうえ首枷〈くびかせ〉をする)の刑に処され、労役囚となった。

211年、劉備(りゅうび)が益州へ入ると、彭羕は劉備に会って自分の思いを話したいと考え、彼に随行してきた龐統(ほうとう)を訪ねる。

彭羕は龐統と面識がなく、ちょうど先方に来客もあったが、構わずに寝台で横になって待つ。

客が帰ったので龐統が姿を見せると、まず彭羕は食事を出すよう求め、その後で語り合い、結局はふた晩も泊めてもらう。

このとき龐統から高く評価されたので、彭羕は旧知の法正(ほうせい)に伴われ、葭萌(かぼう)で劉備に目通りできた。

すると劉備も彭羕を評価し、軍事に関する指示を諸将に伝える役などを命ずる。その働きぶりが劉備の意にかない、彼への知遇は日ごとに深まったという。

214年、劉備は成都(せいと)で劉璋を降した後、益州牧を兼ねたが、彭羕は治中従事(ちちゅうじゅうじ)に抜てきされた。

だが彭羕は労役囚の身から起用され、一朝にして州の諸人の上に立つことになったので思い上がり、自身の厚遇を鼻にかける態度がひどくなる。

諸葛亮(しょかつりょう)は彭羕を手厚く扱っているように見せつつも、内心では快く思っておらず、しばしば劉備と内密に会い、彭羕への注意を促していた。

そのため彭羕は次第に劉備から疎んぜられるようになり、やがて江陽太守(こうようたいしゅ)に左遷された。

彭羕は遠方へ転出することに不満を抱き、馬超(ばちょう)を訪ねて思いを語り、しまいには謀反まで持ちかけてしまう。

馬超は彭羕が帰った後、彼の話した内容を詳しく上奏したため、彭羕は捕らえられて担当官吏に引き渡された。

彭羕は獄中から諸葛亮に手紙を送り、劉備から受けた大恩を裏切ったことを詫びたが、ついに処刑(時期は不明)された。このとき37歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

まず驚いたのが、『三国志演義』や吉川『三国志』で使われていた彭羕がらみの設定のいくつかは、史実に見えていたこと。

彭羕が龐統のところへ押しかけたとか、馬超を相手に劉備への不満を述べたとか、いかにも創作らしかったものの、元ネタは史実だったのですね。

彭羕には実務能力があったのだと思いますが、自身の驕(おご)りを矯正することはできませんでした。そのこと自体は残念でしたが、彼の生きざまからは人間らしさのようなものも感じられました。

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