【姓名】 東平王(とうへいおう) ※名とあざなは不詳
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子
父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。
269年1月に東平王に封ぜられ、273年9月には斉王(せいおう)に移封された。
その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
姓名のところに東平王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。
孫晧の息子たちには名のわからない人物が多いのですが、これらをみな孫氏として収録すると、女性の孫氏も多いから紛らわしい。ということで、例外的に王号で収録しました。
そもそも孫晧の息子たちで、王に封ぜられた人物が何人いたのかがわからない。記事の捉え方によっては30人以上いたようにも見えますし……。
また、この東平王については、273年に斉王に移封されたということなので、記事のタイトルの付け方も難しいところです。
上では「彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない」と書きましたが、洛陽へ移住した孫晧は司馬炎(しばえん)から帰命侯(きめいこう)に封ぜられ、孫瑾は中郎(ちゅうろう)に任ぜられたということです。
さらに、孫晧の息子たちの中で王に封ぜられていた者は、みな郎中(ろうちゅう)に任ぜられたともありました。
なので、彼も洛陽へ移住したのであれば、司馬炎から郎中に任ぜられたのだと思います。
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