【姓名】 魯粛(ろしゅく) 【あざな】 子敬(しけい)
【原籍】 臨淮郡(りんわいぐん)東城県(とうじょうけん)
【生没】 172~217年(46歳)
【吉川】 第113話で初登場。
【演義】 第029回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・魯粛伝』あり。
周瑜(しゅうゆ)から大任を引き継ぎ、劉備(りゅうび)との調整役として活躍
父母ともに不詳。魯淑(ろしゅく)という息子がいた。
魯粛は生後まもなく父を亡くし、祖母とともに暮らす。家が裕福だったこともあり、彼は人々への援助を惜しまなかったという。
すでに天下は騒乱期に入っていたが、魯粛は家業を気にせず財産をばら撒(ま)き、田畑を売ってまで困窮する士人を救い、こうした人々と結びつくことで郷里の歓心を得る。
(198年ごろ)周瑜が居巣県長(きょそうけんちょう)になると、数百人をひきいて魯粛のところへ挨拶に訪れ、資金と食糧の援助を求めた。
すると魯粛は、屋敷にふたつある3千斛(ごく)入りの蔵を指し示し、そのうちひとつをそっくり周瑜に提供してしまう。この様子を見た周瑜は、魯粛の非凡さを改めて感じたので、以後ふたりは親しく付き合うようになった。
やがて魯粛は袁術(えんじゅつ)によって東城県長に任ぜられるも、袁術の人物を見抜き、老弱の者や血気盛んな若者100余人を引き連れて、居巣の周瑜のもとへ身を寄せる。
そして周瑜が居巣を離れ、長江(ちょうこう)を渡って東へ向かうと、魯粛も彼に同行し、家族を曲阿(きょくあ)に住まわせた。
その後、祖母が亡くなったため、魯粛は柩(ひつぎ)を守って東城へ帰り、郷里で葬儀を執り行う。
先に魯粛は親友の劉曄(りゅうよう)から手紙を受け取っており、巣湖(そうこ)の鄭宝(ていほう)のところへ行くことに賛同していた。そこで祖母の葬儀を終えると曲阿に戻り、さっそく北へ向かおうとする。
ちょうど周瑜が魯粛の母を連れて呉県に着いたので、事情を話すと、周瑜は(200年に急死した)孫策(そんさく)の跡を継いだ孫権(そんけん)に仕えるよう勧めた。
魯粛は、周瑜の意見に従って孫権に目通りし、大いに気に入られる。
張昭(ちょうしょう)は魯粛の傲慢さをとがめ、彼は若くて物事に通じていないから、任用すべきではないとの意見を述べた。
それでも孫権は魯粛を重んじ、彼の母に衣服や帳(とばり)を贈ったりした。
208年、劉表(りゅうひょう)が死去すると、魯粛は孫権の許しを得て荊州(けいしゅう)へ赴く。
夏口(かこう)まで来たころ、すでに曹操(そうそう)が荊州へ向かったことを聞いたので、昼夜兼行で道を急いだ。
こうして南郡(なんぐん)まで来ると、劉表の跡を継いだ劉琮(りゅうそう)が曹操に降伏してしまい、劉備は長江を渡って南へ逃げようとしていることがわかる。
★201年以降、劉備主従は荊州の劉表のもとに身を寄せていた。
魯粛は当陽(とうよう)の長阪(ちょうはん)で劉備に会い、孫権と協力して曹操にあたるよう説き、劉備を大喜びさせた。
このとき劉備のそばに諸葛亮(しょかつりょう)がいたが、魯粛から兄の諸葛瑾(しょかつきん)とは友人だと聞くと、彼らもまた親交を結ぶ。
劉備は夏口まで進むと、諸葛亮を孫権のもとへ遣わすことにし、魯粛も一緒に戻って孫権に復命する。
その後、曹操軍に東進の動きが見られるとの情報を得て、孫権は諸将と対応を協議した。
みな曹操を迎え入れたほうがよいとの意見だったが、魯粛だけは発言しない。そのうち孫権が手洗いに立つと、魯粛は後を追っていく。
ここで魯粛は、私などは曹操に降っても出世できるが、あなた自身はどのような待遇を得られるとお考えなのかと述べ、皆の意見に流されないよう諫めた。
孫権は、魯粛と同じ思い(曹操軍との開戦)を持っていたことを明かし、気を取り直す。
このとき周瑜は鄱陽(はよう)にいたが、魯粛は彼を召し還すよう勧めて孫権の同意を得る。
そして周瑜が軍勢の指揮を執ることになり、魯粛は賛軍校尉(さんぐんこうい)として作戦面を支え、荊州へ進軍を開始。赤壁(せきへき)の戦いにおいて曹操軍を大破した。
後に劉備が京城(けいじょう。京口〈けいこう〉)で孫権と会見し、荊州の統治を認めるよう要求した際、魯粛だけは孫権に、荊州の地を劉備に貸し与え、我らとともに曹操を防がせたほうがよいと勧めた。
210年、周瑜が巴丘(はきゅう)で重体に陥ると、孫権に上疏を行い、自分の後任として魯粛を推薦する。
これを受けて魯粛は奮武校尉(ふんぶこうい)に任ぜられ、周瑜に代わって軍勢をひきいることになり、周瑜配下の4千余人と封邑(ほうゆう)の4県も受け継いだ。
★『三国志』(呉書・周瑜伝)によると、周瑜の封邑の4県とは、下雋(かしゅん)・漢昌(かんしょう)・劉陽(りゅうよう)・州陵(しゅうりょう)を指す。
また、周瑜が務めていた南郡太守は程普(ていふ)が引き継ぐことになった。
初め魯粛は江陵(こうりょう)に駐屯したが、やがて長江を下って陸口(りくこう)に移駐。彼の統治下で威令と恩義が大いに行き渡り、配下の軍勢も1万余人に増えた。
後に魯粛は漢昌太守・偏将軍(へんしょうぐん)となる。
214年、魯粛は孫権に付き従って皖城(かんじょう)を攻略し、横江将軍(おうこうしょうぐん)に転じた。
以前、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)の政治がいい加減だったため、周瑜と甘寧(かんねい)が、孫権に蜀(しょく)を取るよう勧めたことがあった。
孫権が劉備の意見を聴いたところ、劉備は内心で蜀を取りたいと考えていたことから、自分と劉璋とは同じ漢(かん)の宗室に連なる者だとし、劉璋を大目に見てほしいと頼む。
ところが劉備は(211年に)軍勢をひきいて蜀へ入り、荊州に関羽(かんう)を留めて守りを固めさせる。
こうして魯粛と関羽の勢力が隣り合うと、しばしば境界争いが起こったが、いつも魯粛は友好的に事態を収めた。
この年(214年)、劉備が成都(せいと)で劉璋を降すと、孫権は、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡の返還を求める。
これを劉備が拒んだため、孫権は呂蒙(りょもう)に進軍を命じ、これら3郡を武力で取り返そうとした。
劉備は益州から公安(こうあん)に戻る一方、関羽を遣って呂蒙らの動きに抵抗。魯粛は益陽(えきよう)に軍勢を留めつつ、関羽との会見を実現させる。
これがきっかけで孫権と劉備の間で話がまとまり、湘水(しょうすい)を境として、荊州を両者で分割統治することになった。
217年、魯粛が46歳で死去すると孫権は哭礼(こくれい)を行い、葬儀にも臨席した。諸葛亮もまた、彼のために喪に服したという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、魯粛は方正かつ謹厳な人柄で、自分を飾らず、暮らしぶりも質素で、俗人が好むようなものに興味を示さなかったという。軍の指揮ぶりもきっちりとしていて、禁令がしっかり守られたのだとも。
そのうえ遠征中も書物を手放さず、談論や文章に長けていたうえ、先々のことまで考えが及び、優れた洞察力の持ち主でもあったそうです。
これらの特長は魯粛の実相に近いと感じられますから、孫権のみならず、劉備にとってもありがたい存在だったのでしょう。
とはいえ、赤壁の戦い以後の荊州や益州を巡る立ち回りについては、孫権が劉備にうまくやられてしまった感がありました。
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