李勝(りしょう)

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【姓名】 李勝(りしょう) 【あざな】 公昭(こうしょう)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~249年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「李勝伝」あり。

曹爽(そうそう)の取り巻きのひとり。司馬懿(しばい)の芝居に引っかかる

父は李休(りきゅう)だが、母は不詳。

李勝は若いころ都に遊学していたが、風雅で才知があり曹爽と仲が良かった。

曹叡(そうえい)が軽佻(けいちょう)浮薄な言動を禁じた際、告発によって李勝も逮捕された。しかし、この時は彼と交際していた者が大勢だったため、収拾がつかず釈放される。それでも数年にわたって官吏の資格を剝奪された。

239年、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、曹爽が実権を握り政治を補佐した。李勝は「洛陽県令(らくようけんのれい)」となり、夏侯玄(かこうげん)が「征西将軍(せいせいしょうぐん)」になると、その「長史(ちょうし)」を務めた。

夏侯玄もかねてから李勝と親しく、「駱谷(らくこく)の役(244年に魏軍が駱谷から進んで蜀〈しょく〉攻略をもくろみ、得るところなく撤退したもの)」は李勝らが提言したものだった。そのため司馬懿は李勝に対しても不愉快な感情を抱く。

のち李勝は「滎陽太守(けいようのたいしゅ)」「河南尹(かなんのいん)」と昇進を続け、各地で治績を上げる。

「河南尹」となり1年ほど経ったころ、政庁の屋根が壊れた。これを修理させていたところ、小さな材木が激しい勢いで落ちてきて、まじない師の持つ石虎(せきこ)の頭を断ち切った。

それから10日して李勝は「荊州刺史(けいしゅうのしし)」に栄転したが、まだ赴任しないうちに処刑されることになる。

249年、司馬懿がクーデターを発動。李勝は曹爽兄弟やほかの取り巻きたちとともに大逆不道の罪で処刑され、その三族三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた李勝の経歴については、ほぼ『三国志』(魏書・曹真伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。また李勝と言えば、『三国志』(魏書・曹真伝)に付された「曹爽伝」にある以下の話が有名です。

「248年冬、中央にいた李勝が『荊州刺史』として赴任するにあたり、太傅(たいふ)の司馬懿のもとを訪問。このとき司馬懿は病気が重いと称し衰えた姿を見せていた。李勝はこれを見抜くことができず、本当に重病だと思い込んだ」

その裴松之注に引く『魏末伝(ぎまつでん)』には、この際のふたりのやり取りがさらに細かく書かれていました。

李勝が「このたび本州(出身の州。荊州)を治めることになりました」と告げると、司馬懿がボケたふりをし、何度も「荊州」を「幷州(へいしゅう)」と聞き違うという例のアレ。小間使いに飲み物を持ってくるよう言いつけ、それをうまく飲めずこぼしてみせる、などということまでしたようです。

李勝は司馬懿の屋敷から退出した後、曹爽らに向かい涙を流しながら告げました。

「太傅のご病気はもう回復不能です。あの様子は見る者を痛ましい思いにさせます」

ほどなくみな処刑されてしまうのに、何とも哀れなありさまですね。

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