【姓名】 潘氏(はんし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)句章県(こうしょうけん)
【生没】 ?~252年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権潘夫人伝(そんけんはんふじんでん)』あり。
呉(ご)の孫権の正室、潘皇后(はんこうごう)
父母ともに不詳。父は役人だったが、法に触れたため死刑に処せられたという。孫権との間に孫亮(そんりょう)を儲けた。
潘氏は姉とともに織室(しょくしつ。宮中にある織物部屋。罪人の娘などが奴隷として入れられる)へ送られていたが、孫権から器量を見込まれて後宮に迎えられた。
やがて懐妊すると、誰かが自分に龍の頭を授け、それを蔽膝(へいしつ。エプロン)で受け取るという夢を見た。こうして243年に生まれたのが孫亮だった。
その後、250年に孫亮が皇太子に立てられると、潘氏は孫権に、姉を織室から解放し、嫁に行かせてほしいと願い出て許された。
翌251年、潘氏は皇后に立てられた。
潘氏は陰険な性格で、容姿の美しい者を嫉妬した。孫権の寵愛を受けてから自身が亡くなるまでには、袁氏(えんし)を讒言(ざんげん)して死に追いやる、といったことが甚だ多かった。
また、孫権が危篤に陥った際には中書令(ちゅうしょれい)の孫弘(そんこう)のもとに使いを遣り、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)の妻である呂后(りょこう)が自ら政治を行った、という先例について尋ねさせた。
翌252年2月、潘氏が孫権の看病疲れから倒れて病を得ると、宮女たちは彼女が前後不覚に寝ているのを見すまし、皆で縊(くび)り殺し、急病で崩じたことにした。後に事実が判明すると、この件に関わったとして6、7人が死刑に処せられた。
同年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)し、潘氏も蔣陵(しょうりょう。孫権の陵)に合葬された。
管理人「かぶらがわ」より
潘氏は性格に問題があったようですけど、その死にざまもひどいものでした。宮女たちに縊り殺されるとは……。
本伝によると、潘氏に続いて孫権が崩じた後、孫亮が帝位に即きました。孫亮は、母の潘氏の姉婿である譚紹(たんしょう)を騎都尉(きとい)に任じて兵士を授けたそうです。
しかし、258年に孫亮が帝位を追われると、譚紹は一家眷属(けんぞく)を挙げて、故郷の廬陵郡(ろりょうぐん)へ移住させられたということでした。
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