張脩(ちょうしゅう)B ※張衡(ちょうこう)Bの誤写とされる人物

【姓名】 張脩(ちょうしゅう) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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漢中(かんちゅう)で「五斗米道(ごとべいどう)」を広める

父母ともに不詳。

光和(こうわ)年間(178~184年)、張脩は漢中にあって「五斗米道」を行う。

五斗米道は張角(ちょうかく)の主宰した「太平道(たいへいどう)」とほぼ同じやり方で、静かな部屋に病人を入れて過ちを反省させるというもの。

このとき病人の家から5斗の米を出させることを常例としたため、張脩は「五斗米師(ごとべいし)」と号した。実際に病気を癒やす効果などなかったが、無知な者たちは競って彼に仕えたという。

184年、張角が官軍の討伐を受けて病死すると、張脩もまた滅んだ(時期は不明)。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張魯伝〈ちょうろでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によるもの。

なお裴松之は、この張脩が「張衡(ちょうこう)」とあるべきだと、誤写の可能性を指摘しています。ここでいう張衡とは張魯の父のこと。

「張魯伝」には、(張魯の祖父の)張陵(ちょうりょう)が死ぬと(張陵の)息子の張衡が(引き続き)道術を行い、張衡が死ぬと張魯が道術を行ったとあります。

これに、益州牧(えきしゅうぼく。188~194年)の劉焉(りゅうえん)が張魯を督義司馬(とくぎしば)に任じ、別部司馬(べつぶしば)の張脩と軍勢をひきいて漢中太守(かんちゅうたいしゅ)の蘇固(そこ)を攻めさせた、という記事が続き――。

張魯は途中で張脩を襲って殺害し、軍勢を奪い取ったともありました。

張陵-張衡(張脩?)-張魯のラインがあり、そのほかに別部司馬の張脩がいたということなのでしょうか? このあたりは紛らわしいところがあり、イマイチよくわかりませんでした。

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