孫休(そんきゅう)

【姓名】 孫休(そんきゅう) 【あざな】 子烈(しれつ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 235~264年(30歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫休伝』あり。

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呉(ご)の第3代皇帝

父は孫権(そんけん)、母は(南陽〈なんよう〉の)王氏(おうし。敬懐皇后〈けいかいこうごう〉)。

孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)はみな兄で、孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)や孫魯育(そんろいく)など、ほかに姉妹もいた。

孫ワン(そんわん。雨+單)・孫コウ(そんこう。雷+大)・孫モウ(そんもう。壴+巨)・孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)という4人の息子を儲けた。

258年10月、孫綝(そんりん)によって帝位を追われた弟の孫亮に代わり帝位に即く。

同年12月、孫綝がクーデターを計画していると聞き、密かに張布(ちょうふ)と計り孫綝を誅殺。

262年10月、濮陽興(ぼくようこう)を丞相(じょうしょう)に任ずる。これ以降、濮陽興は軍事と行政を、張布は宮中の官署を、それぞれ取り仕切るようになる。孫休自身はもっぱら古典文献の研究に没頭し、百家の学説をすべて読破しようという意気込みを示した。

264年7月に崩御(ほうぎょ)し景皇帝(けいこうてい)と諡(おくりな)された。

主な経歴

-235年(1歳)-
この年、誕生。

-247年(13歳)-
この年、中書郎(ちゅうしょろう)の射慈(しゃじ)と郎中(ろうちゅう)の盛沖(せいちゅう)から学問を受けた。

-252年(18歳)-
1月、父の孫権から琅邪王(ろうやおう)に封ぜられ虎林(こりん)に住むことになる。

4月、孫権が崩御し、弟で皇太子(こうたいし)の孫亮が帝位を継ぐ。

諸葛恪(しょかつかく)が政治の実権を握ると、諸王が長江(ちょうこう)沿いの軍事的な要地に住むことを好まず、孫休も丹楊郡(たんようぐん)へ移される。

その後、丹楊太守(たんようたいしゅ)の李衡(りこう)にたびたび嫌がらせを受けたため、孫亮に上書しほかの郡へ移してほしいと願い出、詔(みことのり)により会稽郡(かいけいぐん)へ移された。

数年後のある日、龍に乗って天に昇ったものの、振り返ると龍に尻尾がないという夢を見た。

-258年(24歳)-
9月、弟の孫亮が孫綝の誅殺に失敗して帝位を追われ、会稽王に貶(おと)される。

9月、孫綝の使者として宗正(そうせい)の孫楷(そんかい)と中書郎の董朝(とうちょう)が着き、帝位に即いてほしいとの意向を伝えられる。

この話を聴き、初めは何か企みがあるのではないかと疑ったが、ふたりが孫綝らの気持ちに噓や偽りのないことを詳しく述べたため、ふた晩考えた末に都へと出発した。

10月、曲阿(きょくあ)に着いたときひとりの老人と出会い、道を急ぐよう助言される。この言葉を善しとして、この日のうちに布塞亭(ふさいてい)まで進んだ。

武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫恩(そんおん)が丞相の代行として百官を引き連れ、乗輿(じょうよ。天子〈てんし〉の乗り物)と法駕(ほうが。同じく天子の乗り物)を用意し、孫休を永昌亭(えいしょうてい)で出迎えようとする。

孫恩は永昌亭に宮居(みやい)を作り、軍営で用いる帳(とばり)を巡らせ便殿(べんでん。仮の御所)とし、御座(ぎょざ)を設け待っていた。

10月、永昌亭に到着。孫楷を孫恩のところへ遣って到着を伝え、孫楷が戻ると、輦(れん。天子の乗り物)に乗って進む。群臣は再拝して臣下の礼を執った。

便殿に入ったものの謙譲の気持ちから御座へは着かず、東の廂(しょう。脇部屋)に留まる。すると階下から戸曹尚書(こそうしょうしょ)が、「皇帝としての礼を執られますように」と上奏し、丞相(代行の孫恩)が璽符(じふ。皇帝の印)を奉った。

それをみたび辞退したが、群臣もみたび「お受けになられますように」と乞うた。このため、ついに璽符を受けることを決意。群臣が位階に従い行列の先導に立ち、自身は乗輿に乗り、百官がそのそばに付いて進んだ。

孫綝が1千の兵とともに都の郊外まで来ており、道の傍らで拝礼した。そこで乗輿から降りて孫綝に答礼した。

この日のうちに正殿に入ると大赦を行い、「太平(たいへい)」を「永安(えいあん)」と改元した。

10月、詔を下し、大将軍(だいしょうぐん)の孫綝を丞相・荊州牧(けいしゅうのぼく)に任じ、封邑(ほうゆう)5県を加増。

また、武衛将軍の孫恩を御史大夫(ぎょしたいふ)・衛将軍(えいしょうぐん)・中軍督(ちゅうぐんとく)に任じて県侯(けんこう)に封じ、威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠(そんきょ)を右将軍(ゆうしょうぐん)に任じて同じく県侯に封じ、偏将軍(へんしょうぐん)の孫幹(そんかん)を雑号将軍(ざつごうしょうぐん)に任じて亭侯(ていこう)に封じ、長水校尉(ちょうすいこうい)の張布を輔義将軍(ほぎしょうぐん)に任じて永康侯(えいこうこう)に封じ、董朝を郷侯(きょうこう)に封ずる。

さらに、自身が丹楊に住んでいたとき圧力をかけていた、丹楊太守の李衡について触れ、かつてのことが罪になるかもしれないと考え、自ら役人のもとに出頭した李衡を釈放し郡に戻すよう命じた。

10月、甥の孫晧(そんこう)を烏程侯(うていこう)に、孫晧の弟の孫徳(そんとく)を銭唐侯(せんとうこう)に、同じく弟の孫謙(そんけん)を永安侯に、それぞれ封ずる。

11月、風の方向が目まぐるしく変わり、連日、霧が立ち込めた。孫綝の一門から5人も侯が出て、それぞれ近衛兵を指揮下に置き、その権勢は主君である孫休をしのいだ。彼らが上言する意見には反対の声も出ず、ますます勝手気ままに振る舞うようになった。

しかし、彼らが変事(クーデター)を起こすことを恐れ、しばしば孫休は恩賞を与えるようにしていた。

11月、詔を下し、自身の即位に尽力した者たちの名を調べ、これまでの例により爵位を加えられる者には、速やかに封爵を実施するよう命ずる。

11月、詔を下し、大将軍の孫綝の職掌が煩多であることに触れ、衛将軍・御史大夫の孫恩を侍中(じちゅう)に任じ、孫綝と分担して諸事の処理にあたるよう命ずる。

11月、詔を下し、現状では役人が家を治めていくのが難しいことに触れ、もし家に5人いるうちの3人までが公事に従事している場合、その父兄が希望するひとりだけは家に留め、米の供出と軍役を免除するよう命ずる。

さらに部将や官吏のうち、先(10月)に永昌亭まで出迎えに来て付き従った者については、全員の官位を1級加増した。

それからしばらくして、孫綝がクーデターを計画していると聞いたため、左将軍(さしょうぐん)の張布と密かに対策を練った。

12月、この日は臘会(ろうかい。祖先および百神の祭祀)だった。百官が朝賀に集い、公卿(こうけい)が昇殿した際、武士に命じて孫綝を捕縛させ、その日のうちに死刑に処した。

12月、詔を下し、孫綝の誅殺に功があった張布に中軍督を加官したうえ、張布の弟の張惇(ちょうとん)を都亭侯(とていこう)に封じて兵300を与え、張惇の弟の張恂(ちょうじゅん)を校尉(こうい)に任ずる。

12月、詔を下し、いにしえの制度に則り学官を設置したうえ五経博士(ごきょうはくし)を立て、その役目に最もふさわしい人物を選び厚遇するよう命ずる。

また、すでに官吏である者たちや部将や官吏の子弟たちから、学問を好み、志のある者を選抜し、それぞれに五経博士の講義を受けさせる。そして1年ごとに試験を課して成績を評価し、その結果により官位と恩賞を与えることにした。

-259年(25歳)-
1月、雷が鳴る。

3月、九卿(きゅうけい)の官が整ったことから詔を下し、近年来、農耕や養蚕(ようさん)という本来の務めに背き、みな長江に船を浮かべ、商売のために江を上下していることに触れ、農耕を広く盛んにするため賦税(ふぜい)を軽くし、良田とそうでないものとを区別して課税することにし、もっぱら寛大で公平であるよう努めたいとの考えを示す。併せて九卿や尚書に対し、みなで協議して適切な方策を定めるよう求めた。

-260年(26歳)-
3月、西陵(せいりょう)から「赤い烏(カラス)が現れた」との報告が届く。

秋、都尉(とい)の厳密(げんみつ)の建議を容れ、丹楊郡の宛陵(えんりょう)に浦里塘(ほりとう。灌漑用〈かんがいよう〉のダム)を築く。

この年、会稽郡で「会稽王の孫亮が都に還り、天子になるだろう」との流言が広まった。これに加え孫亮に仕える宮人から、「孫亮さまは巫(みこ)に祈とうを行わせ、呪いの言葉を発しておられます」との告発もあった。

そこで孫亮の位を候官侯(こうかんこう)に貶し、任地へ向かうよう命じた。ところが、その途上で孫亮が自殺(異説もある)してしまったため、護送にあたった役人を処刑した。

この年、会稽南部を建安郡(けんあんぐん)とし、宜都郡(ぎとぐん)を分割して建平郡(けんぺいぐん)を設置した。

この年、建徳県(けんとくけん)で大きな鼎(かなえ)が発見された。

-261年(27歳)-
5月、大雨が降り、川や谷があふれる。

8月、詔を下し、光禄大夫(こうろくたいふ)の周奕(しゅうえき)と石偉(せきい)に国内の巡察を命ずる。その後、巡察の結果に基づき、地方官の昇進と左遷を命ずる詔も下した。

9月、鬱林郡(うつりんぐん)の布山(ふざん)から「白い龍が現れた」との報告が届く。

この年、丹楊郡安呉(あんご)の平民である陳焦(ちんしょう)が亡くなったが、埋葬された6日後に生き返り、穴を穿(うが)って出てきた。

-262年(28歳)-
2月、火災があり、白虎門(びゃっこもん。建業城の西門)の北楼が焼ける。

7月、新都郡(しんとぐん)の始新(ししん)から「黄色い龍が現れた」との報告が届く。

8月、大雨が降って雷も鳴り、川や谷があふれる。

8月、朱氏(しゅし)を皇后に立てる。

8月、孫ワンを皇太子に立てたうえ大赦を行う。

10月、衛将軍の濮陽興を丞相に、廷尉(ていい)の丁密(ていみつ)と光禄勲(こうろくくん)の孟宗(もうそう。孟仁〈もうじん〉)を左右の御史大夫に、それぞれ任ずる。

孫休は古くから濮陽興や張布と親しかったため、ふたりに政治を任せ、濮陽興は軍事と行政を、張布は宮中の官署を、それぞれ取り仕切るようになった。そして自身はもっぱら古典文献の研究に没頭し、百家の学説をすべて読破しようという意気込みを示した。

この年、察戦(さつせん)の官にある者を交趾(こうし)へ遣わし、孔雀(クジャク)と大豬(オオイノシシ)を調達させた。

-263年(29歳)-
4月、零陵郡(れいりょうぐん)の泉陵(せんりょう)から「黄色い龍が現れた」との報告が届く。

5月、呂興(りょこう)らが交趾郡で反乱を起こし、交趾太守の孫諝(そんしょ)を殺害。その後、呂興は魏(ぎ)に使者を遣わし、「新たな太守と援軍を送ってほしい」と乞うた。

これより先のこと、孫諝は郡内に徴用令を出して優れた技術者を選び、1千余人を建業へ送っていた。このとき建業から察戦の役人がやってきたため、人々はまた徴用されるのではないかと恐れた。

そこで呂興らはこの動揺に乗じて兵士や民を扇動し、異民族の者たちも誘い込み反乱を起こしたということだった。

10月、蜀(しょく)から「魏の攻撃を受けている」との知らせが届く。

11月、蜀の劉禅(りゅうぜん)が魏の征西将軍(せいせいしょうぐん)の鄧艾(とうがい)に降伏。これにより巴蜀(はしょく)の地はことごとく魏に平定された。

11月、建業の石頭小城(せきとうしょうじょう)で火災があり、西南部分を180丈(じょう)焼く。

11月、大将軍の丁奉(ていほう)に命じ、諸軍を指揮して魏の寿春(じゅしゅん)へ向かわせる。また、別に将軍の留平(りゅうへい)を南郡(なんぐん)の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)のもとへ行かせ、どの方面に軍勢を出すべきか検討するよう命じた。

さらに将軍の丁封(ていほう)と孫異(そんい)には、沔中(べんちゅう。漢水〈かんすい〉流域)へと軍勢を進めさせた。

これらの動きは、みな魏を牽制(けんせい)し蜀を援護するためのものだった。そのため「蜀の劉禅が魏に降伏した」との知らせが届くと軍事行動を取りやめた。

この年、丞相の濮陽興が、「屯田に携わっている農民から1万人を選んで兵士にすること」および「武陵郡(ぶりょうぐん)を分割して天門郡(てんもんぐん)を設置すること」を建議した。

この年、長沙(ちょうさ)に青い龍が、慈胡(じこ。慈湖)に白い燕(ツバメ)が、豫章(よしょう)に赤い雀(スズメ)が、それぞれ現れた。

-264年(30歳)-
1月、大赦を行う。

2月、鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)の陸抗(りくこう)、撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)の歩協(ほきょう)、征西将軍の留平、建平太守の盛曼(せいまん)らが軍勢をひきい、蜀で巴東(はとう)の守備隊長を務めていた羅憲(らけん)を包囲。

4月、魏の新附督(しんふとく。呉から魏に寝返った者たちで編成された部隊の隊長)の王稚(おうち)が海から句章(こうしょう)へ侵入し、その地の長官を捕虜にしたうえ財貨や男女200余人を略奪。

これを将軍の孫越(そんえつ)が迎え撃ち、船1隻(せき)を拿捕(だほ)して30人を捕虜にした。

7月、海塩(かいえん)が海賊に襲われ、司塩校尉(しえんこうい)の駱秀(らくしゅう)が殺害される。このため中書郎の劉川(りゅうせん)に命じ、廬陵(ろりょう)の兵を動かし海塩の救援に向かわせた。

7月、平民の張節(ちょうせつ)らが豫章で反乱を起こし、これに加わる者が1万余にも上る。

7月、魏の将軍の胡烈(これつ)が歩騎2万で西陵へ侵入して羅憲を援ける。これを受け、西陵を包囲していた陸抗らは軍をまとめて引き揚げた。

7月、交州(こうしゅう)を分割して広州(こうしゅう)を設置。

7月、大赦を行う。

7月、崩御。

管理人「かぶらがわ」より

孫休は、弟の孫亮が孫綝により廃位されたあと、迎えられて帝位に即きましたが、数か月後には孫亮が失敗した孫綝の誅殺を果たします。

学問を好み、農耕や養蚕の振興に努めるなど、それなりに善政を敷いた時期もありました。しかし、古くから親しかった濮陽興と張布に国政を任せると、自身は古典研究にのめり込んでしまいます。乱世に生きる君主としては問題がありますね。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』には、孫休が4人の息子たちの名とあざなを定めた際の詔が載せられていました。

この中で孫休は、人々が子どもの名前を付けるとき、競ってよい名やあざなを付けようとしている風潮を笑い、自分の息子たちの名やあざなには独自に考え出した文字を用います。こうすることで、世間の人々がその名を避けやすいよう配慮をしたのだと。

孫休の考えには納得できる部分もあります。現代においては、まさにそういう風潮が強いですから。現代では誕生後ほどなく名前を付けるので、当時とは仕組みが違いますけどね……。

いくらか成長してから父兄や師友に名を付けてもらうというやり方は、意外に現代でも通用するかもしれません。

なお裴松之は、孫休が類例のない文字を作り出し、典拠のない音を定めたことを批判しています。確かに、新しい文字を作り出すというのは畏れ多いかも――。孫休は学識に自信があったのでしょう。ですがこだわりのあまり、周りが見えなくなるところもあったようですね。

死の間際の孫休は、枕頭に濮陽興を呼び寄せて皇太子の孫ワンを託しました。しかし、濮陽興は張布と相談したうえ、孫ワンではなく孫晧を帝位に即けてしまうのです。
「呉の孫氏」収録人物一覧
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人物データ 呉の孫氏
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