孫亮(そんりょう) ※あざなは子明(しめい)

【姓名】 孫亮(そんりょう) 【あざな】 子明(しめい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 243~260年(18歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫亮伝』あり。

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呉(ご)の第2代皇帝

父は孫権(そんけん)、母は潘氏(はんし)。

孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)は兄。孫魯班(そんろはん)や孫魯育(そんろいく)など、ほかに姉妹もいた。

250年11月、先に兄の孫和が廃位されたことに伴い、末子ながら皇太子に立てられる。

252年4月、父の孫権が崩じたため帝位を継ぐ。

257年4月、自ら政治を執り、大将軍(だいしょうぐん)の孫綝(そんりん)の専横に抵抗する。

258年9月、孫綝の誅殺に失敗して帝位を追われ、会稽王(かいけいおう)に貶(おと)される。

260年、会稽郡に広まった流言がもとで、兄の孫休から候官侯(こうかんこう)に貶される。その後、任地へ向かう道中で自殺(異説もある)した。

主な経歴

-243年(1歳)-
この年、誕生。このとき父の孫権は62歳になっており、最年少の息子として特に寵愛を受けた。

-250年(8歳)-
?月、兄で皇太子の孫和が廃位され、故鄣(こしょう)に幽閉される。同じく兄で魯王(ろおう)の孫霸は、孫権から死を賜った。

11月、孫権から皇太子に立てられる。

-251年(9歳)-
5月、母の潘氏が孫権の皇后に立てられる。

12月、孫権が、大将軍の諸葛恪(しょかつかく)を太子太傅(たいしたいふ)に、会稽太守(かいけいたいしゅ)の滕胤(とういん)を太常(たいじょう)に、それぞれ任じ、皇太子の補佐を命ずる。

-252年(10歳)-
4月、孫権が崩御(ほうぎょ)する。帝位を継いで大赦を行い、「神鳳(しんぽう)」を「建興(けんこう)」と改元した。

閏4月、諸葛恪を太傅に、滕胤を衛将軍(えいしょうぐん)に、それぞれ任じて尚書(しょうしょ)を兼任させ、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の呂岱(りょたい)を大司馬(だいしば)に任ずる。

併せて、もろもろの文武の官にある者の爵位を進めて恩賞を下賜し、一般の官吏もそれぞれ昇級させる。

10月、太傅の諸葛恪が軍勢をひきいて巣湖(そうこ)へ向かい、その地で魏軍(ぎぐん)の侵出を押しとどめたうえ、東興(とうこう)に城を築く。将軍の全端(ぜんたん)を西城の守備に、都尉(とい)の留略(りゅうりゃく)を東城の守備に、それぞれ充てた。

12月、強風が吹いて雷も鳴る。

この月に魏は、将軍の諸葛誕(しょかつたん)や胡遵(こじゅん)らに歩騎7万で東興を包囲させ、将軍の王昶(おうちょう)には南郡(なんぐん)を攻めさせ、毌丘倹(かんきゅうけん)には武昌(ぶしょう)への進軍を命じた。

12月、諸葛恪が大軍をひきい、魏の侵攻に対抗するため出発。

12月、諸葛恪の軍勢が東興に到着。ここで魏軍を大破し、魏の将軍の韓綜(かんそう)と桓嘉(かんか)らを討ち取る。

12月、雷雨があり、武昌の端門(たんもん。宮城の南の正門)が落雷で焼ける。端門を作り直したところ、今度は内殿で火災が起こった。

-253年(11歳)-
1月、全氏(ぜんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。

1月、呉に侵攻していた魏の王昶らが軍勢を引き揚げる。

2月、呉軍が東興から凱旋(がいせん)したので、封爵や恩賞の沙汰を盛大に行う。

3月、諸葛恪が軍勢をひきいて魏の討伐に向かう。

4月、諸葛恪が魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲する。しかしこのとき疫病が大流行したため、呉兵の大半が死んでしまう。

8月、諸葛恪が軍勢をまとめ、魏の合肥新城から撤退する。

10月、大饗(たいきょう)の礼(先王の祭祀〈さいし〉)を執り行う。

10月、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫峻(そんしゅん)が、宮中に潜ませた兵士を使って諸葛恪を殺害する。

大赦を行い、孫峻を丞相(じょうしょう)に任じたうえ、富春侯(ふしゅんこう)に封じた。

11月、春申(しゅんしん)に5羽の大きな鳥が現れる。これを受け、翌年から「建興」を「五鳳(ごほう)」と改元することを決める。

-254年(12歳)-
夏、洪水が起こる。

秋、呉侯の孫英(そんえい)が孫峻の暗殺を企てたものの、発覚したため自殺する。

9月、魏の曹芳(そうほう)が廃位され、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐ。

11月、彗星(すいせい)が斗宿(いて座の中央部。南斗六星)と牛宿(やぎ座)の辺りに現れる。

-255年(13歳)-
1月、魏の鎮東大将軍(ちんとうだいしょうぐん)の毌丘倹と前将軍(ぜんしょうぐん)の文欽(ぶんきん)が、淮南(わいなん)の軍勢を挙げて魏に背く。ふたりは西方へ進攻し、楽嘉(らくか)で魏軍と交戦した。

閏1月、孫峻が、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の呂拠(りょきょ)と左将軍(さしょうぐん)の留賛(りゅうさん)とともに、軍勢をひきいて魏の寿春(じゅしゅん)へ向かう。

しかし東興まで進んだところで、文欽らが敗れたとの知らせが届く。

閏1月、呉軍が橐皋(たくこう)まで進むと、文欽が孫峻のもとに投降し、残っていた淮南の軍勢数万も呉軍に合流した。

その後、魏の諸葛誕が寿春城へ入ると、孫峻は軍勢をまとめて引き揚げる。

2月、呉軍が魏将の曹珍(そうちん)と高亭(こうてい)で遭遇し、その軍勢を討ち破る。

一方で留賛は、魏の諸葛誕の別動隊をひきいた部将の蔣班(しょうはん)に菰陂(こひ)で敗れる。留賛は、将軍の孫楞(そんりょう)や蔣脩(しょうしゅう)らとともに殺害された。

3月、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の朱異(しゅい)に命じて魏の安豊(あんぽう)を攻めさせたものの、陥すことができなかった。

7月、将軍の孫儀(そんぎ)・張怡(ちょうい)・林恂(りんじゅん)らが、孫峻の暗殺を企てたものの発覚する。孫儀は自殺し、林恂らは処刑された。

?月、陽羨(ようせん)の離里山(りりざん。離墨山〈りぼくざん〉)にあった大きな岩が起ち上がる。

?月、衛尉(えいい)の馮朝(ふうちょう)に命じて広陵(こうりょう)に城を築かせる。

また、将軍の呉穣(ごじょう)を広陵太守(こうりょうたいしゅ)に、留略を東海太守(とうかいたいしゅ)に、それぞれ任ずる。

12月、太廟(たいびょう。始祖の孫堅〈そんけん〉の廟)を建てる。

この年、ひどい干ばつに見舞われた。

この年、馮朝を監軍使者(かんぐんししゃ)・督徐州諸軍事(とくじょしゅうしょぐんじ)に任じた。

この年、民衆が飢えて兵士も不満を抱き、その心が呉から離れた。

-256年(14歳)-
1月、太祖廟(たいそびょう。孫権の廟)を建てる。

2月、建業(けんぎょう)で火災が起こる。

8月、孫峻が征北大将軍(せいほくだいしょうぐん)の文欽の計を用い、魏の征伐を計画する。

そこで、まずは文欽と驃騎将軍の呂拠、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の劉纂(りゅうさん)、鎮南将軍の朱異、前将軍の唐咨(とうし)らの軍勢を動かし、江都(こうと)から淮水(わいすい)・泗水(しすい)流域への進入を命じた。

9月、孫峻が死去する。

このため孫峻の従弟で偏将軍(へんしょうぐん)の孫綝を、侍中(じちゅう)・武衛将軍・領中外諸軍事(りょうちゅうがいしょぐんじ)に任じ、先に出撃していた呂拠らには帰還命令を出す。

しかし呂拠は、孫綝が孫峻の跡を継いで朝廷の実権を握ったと聞き、ひどく腹を立てた。

9月、大司馬の呂岱が死去する。

9月、太白星(たいはくせい。金星)が南斗を犯す。

呂拠・文欽・唐咨らから上表があり、衛将軍の滕胤を丞相に任じてほしいと請わたものの、孫綝がそれを許さなかった。

9月、滕胤を大司馬に任じ、亡くなった呂岱に代わって武昌に駐屯するよう命ずる。一方、呂拠が軍勢をひきいて帰還し、孫綝を討とうと謀った。

孫綝は孫亮の詔書を使い、文欽と唐咨らに呂拠を捕らえるよう命じた。

10月、孫綝が、孫憲(そんけん。孫慮〈そんりょ〉)・丁奉(ていほう)・施寛(しかん)らを遣わし、水軍を使って江都で呂拠を迎え撃つ。

また別に将軍の劉丞(りゅうじょう)を遣わし、歩騎で滕胤を攻めさせる。滕胤は敗れ、その一族が皆殺しにされた。

10月、大赦を行い、「五鳳」を「太平(たいへい)」と改元する。

10月、呂拠が新州(しんしゅう。建業近くにあった長江〈ちょうこう〉の中洲〈なかす〉)で捕らえられる(自殺したともいう)。

11月、孫綝を大将軍に任じて仮節(かせつ)とし、永寧侯(えいねいこう)に封ずる。

11月、孫憲(孫慮)が将軍の王惇(おうとん)と謀り、孫綝の暗殺を企てたものの発覚する。孫綝は王惇を殺害し、孫憲を自殺させた。

12月、五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の刁玄(ちょうげん)を蜀(しょく)へ遣わし、呉で反乱が起きたことを伝えさせる。

-257年(15歳)-
2月、大雨が降り、雷も鳴る。

2月、雪が降り、厳しい寒さとなる。

?月、長沙郡(ちょうさぐん)の東部を分割して湘東郡(しょうとうぐん)を、同じく西部を分割して衡陽郡(こうようぐん)を、それぞれ設置する。

さらに、会稽郡の東部を分割して臨海郡(りんかいぐん)を、豫章郡(よしょうぐん)の東部を分割して臨川郡(りんせんぐん)を、それぞれ設置した。

4月、正殿に出御(しゅつぎょ)して大赦を行い、初めて自ら政治を執る。孫綝の意見に対して反対や反論をし、聞き入れないことが多くなる。

また、兵士の子弟で15~18歳の者から3千人以上を選抜し、独自の特別部隊を編制する。主だった部将の子弟から、年が若くて勇気と力のある者を選び、それらの部隊の指揮官とした。

5月、魏の征東将軍(せいとうしょうぐん)の諸葛誕が、淮南の軍勢をひきいて寿春城に立て籠もる。

諸葛誕の使者として将軍の朱成(しゅせい)が到着し、呉の臣下と称して上疏する。

このとき、魏から寝返るので援軍を送ってほしい旨を伝え、息子の諸葛靚(しょかつせい)と長史(ちょうし)の呉綱(ごこう)、さらに側近の子弟を人質として送ってきた。

6月、文欽・唐咨・全端らに命じ、歩騎3万をひきいて諸葛誕の救援に向かわせる。

また朱異が、虎林(こりん)から軍勢をひきいて夏口(かこう)を攻めたところ、夏口督(かこうとく)の孫壱(そんいつ)が魏に逃亡した。

7月、孫綝が軍勢をひきいて寿春の諸葛誕の救援に赴く。孫綝が鑊里(かくり)に軍勢を留めるうち、夏口から朱異が到着した。

孫綝は朱異を前部督(ぜんぶとく)に任じ、丁奉らとともに介士(重武装の兵)5万を指揮して寿春の包囲を突破するよう命ずる。

8月、会稽郡の南部で反乱が起こり、都尉(会稽郡の南部は都尉が治めていた)が殺される。

また、鄱陽(はよう)・新都(しんと)の両郡でも反乱が起こり、廷尉(ていい)の丁密(ていみつ)、歩兵校尉(ほへいこうい)の鄭冑(ていちゅう)、将軍の鍾離牧(しょうりぼく)に、それぞれ軍勢をひきいて討伐にあたらせた。

9月、孫綝が、朱異が兵糧不足のため帰還したことに激怒し、鑊里で処刑する。

9月、孫綝が鑊里から建業へ帰還する。

9月、大赦を行う。

11月、全緒(ぜんしょ)の息子の全禕(ぜんい)と全儀(ぜんぎ)が、母を連れて魏へ逃げ込む。

12月、全端や全懌(ぜんえき)らが、寿春城から魏の司馬昭(しばしょう)のもとへ赴く。

-258年(16歳)-
1月、寿春城内で対立した諸葛誕が、文欽を殺害する。

3月、魏の司馬昭が寿春を陥す。諸葛誕は側近とともに戦死し、部将や軍吏はみな降伏した。

7月、兄でもとの斉王(せいおう)の孫奮を章安侯(しょうあんこう)に封ずる。

7月、州郡に詔(みことのり)を下し、宮殿建設用の材木を伐採させる。

8月から、雲が垂れ込めながら雨が降らない日が40日余りも続く。

このころ孫綝の専横が目に余るとして、太常の全尚(ぜんしょう)や将軍の劉丞とともに、孫綝誅殺の謀(はかりごと)を巡らせる。

9月、孫綝が兵を差し向けて全尚を捕らえたうえ、さらに弟の孫恩(そんおん)を遣わし、劉丞を蒼龍門(そうりょうもん。建業の東門)の外で攻め殺す。

その後、孫綝は大臣たちを宮門に呼び集め、「孫亮を退位させて会稽王とする」と宣言した。

10月、兄の孫休が帝位に即き、大赦を行ったうえ、「太平」を「永安(えいあん)」と改元する。

-260年(18歳)-
この年、会稽郡で「会稽王の孫亮が都(建業)に還り、天子(てんし)になるだろう」との流言が広まる。

これに加えて孫亮に仕える宮人が、「孫亮さまは巫(みこ)に祈とうを行わせ、呪いの言葉を発しておられます」と告発した。

このことが担当官吏から孫休に上聞されたため、孫亮は候官侯に位を貶され、任地へ向かうよう命ぜられた。

ところが、その道中で孫亮は自殺し、護送にあたっていた役人が処刑された。

『三国志』(呉書・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、孫休が鴆毒(ちんどく)で孫亮を殺害した、との異説もある。

管理人「かぶらがわ」より

わずか10歳で即位した後、諸葛恪、孫峻、孫綝と、呉の実権は転々としますが、孫亮の手にはありませんでした。魏の曹芳と似ていますね。

これでは駄目だと、孫亮は15歳にして自ら政治を執り、孫綝の専横に対抗します。

ほどなく全尚(娘が孫亮の皇后だった)らと孫綝の誅殺を計ったものの、先手を打たれ、退位に追い込まれました。

退位後も会稽では穏やかに暮らせず、言いがかりをつけられて亡くなることに……。

孫亮は聡明(そうめい)でしたから、兄のうちの誰が孫権の跡を継いだとしても、彼の身に波乱が起きていたのかもしれません。まぁ、末子が父の跡を継がなくてはいけないという状況が、呉の行く末を予感させていますよね。

本伝の裴松之注に引く胡沖(こちゅう)の『呉歴(ごれき)』および虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には、鼠(ネズミ)の糞(ふん)にまつわるふたつの逸話が載せられています。

「孫亮が西苑に出御したときのこと、生の梅の実を食べようと思い、黄門(こうもん。宦官〈かんがん〉)に倉庫から蜂蜜(ハチミツ)を持ってくるよう命じた。ところが、その蜂蜜の中に鼠の糞が入っていた」

「倉庫の役人を呼んで詰問したが、役人は黄門に蜂蜜を渡していないと答え、黄門は確かに受け取ったと言い張った」

「侍中の刁玄と張邠(ちょうひん)は、ふたりの言い分が食い違っていたため、裁判を行って事実を糾明するよう孫亮に進言した」

「しかし孫亮は、この場で蜂蜜の中に入っていた糞を割ってみるよう命じた。糞の内部は乾いていた」

「孫亮は笑って刁玄と張邠に言った。『もし糞がもとから蜂蜜の中に入っていたのなら、その糞は外も内も湿っているはずだ。だが、この糞は外側が湿っているものの、内側は乾いている。黄門の仕業に間違いない』。ついには黄門も事実を認めた。孫亮に付き従っていた者たちはその知恵に驚き、また畏れもした」。これが『呉歴』の記事。

そして、もうひとつは『江表伝』の記事。

「あるとき孫亮が黄門に命じ、銀の椀(わん)に蓋をして持たせ、交州(こうしゅう)から献上された甘蔗糖(かんしょとう。砂糖)を取ってこさせた」

「その黄門は以前から倉庫の役人に恨みを抱いていたので、椀の甘蔗糖の中に鼠の糞を入れたうえ、倉庫の役人は職務怠慢だと訴えた」

「孫亮は、倉庫の役人に甘蔗糖を収めている器を持ってくるよう命ずると、こう尋ねた。『この器には蓋があるし、覆いまでかぶせてあるから鼠の糞など入るはずがない。黄門はお前に恨みを持っているのではないか?』」

「すると倉庫の役人は叩頭(こうとう)して言った。『以前、黄門が私に宮中で用いる莞(ガマ)の席(しきもの)を横流しするよう言ってきたことがありましたが、数が決まっているため応じませんでした』」

「孫亮はそのことが原因だと考え、黄門を尋問したところすべて白状した。そこで目の前で黄門の髪を切り、鞭打ちを加えて奥向きの仕事から外した」

で、ふたつの話はこれで終わらず、裴松之が自分の考えを付け加えています。

「鼠の糞が新しいものなら、(蜂蜜の中に入っていなくても)外から内まで湿っている。黄門が新しい糞を用いていたら、その悪事を暴くことはできなかったのである。たまたま糞が乾いたものであったため、孫亮の頭の良さが示されることになった」

「しかし(このふたつの中でも)『呉歴』のいうところは、『江表伝』のいうところが事実に近いことに及ばないと思われる」と。

つまり、『江表伝』の記事のほうが『呉歴』の記事より事実に近いだろう、と感じていたわけです。

逸話の中身もなかなかおもしろかったのですが、この件を掘り下げた裴松之の視点にも興味を引かれました。

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