張魯(ちょうろ) ※あざなは公祺(こうき)、五斗米道(ごとべいどう)の3代目教主、魏(ぎ)の閬中原侯(ろうちゅうげんこう)

【姓名】 張魯(ちょうろ) 【あざな】 公祺(こうき)

【原籍】 沛国(はいこく)豊県(ほうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第082話で初登場。
【演義】 第016回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張魯伝』あり。

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「五斗米道(ごとべいどう)」の3代目教主、曹操(そうそう)に降って教義を後世に伝える、閬中原侯(ろうちゅうげんこう)

父は張衡(ちょうこう)だが、母は不詳。張衛(ちょうえい)は弟。息子の張富(ちょうふ)は跡継ぎで、ほかに4人の息子がいたことがうかがえる。曹操の息子の曹宇(そうう)に嫁いだ娘もいた。

張魯の祖父の張陵(ちょうりょう)は蜀(しょく)に身を寄せ、鵠鳴山(こくめいざん)へ入って道術を学び、それらに関する書物を著し、人々を惑わせた。

彼の下で道術を学ぼうとする者は、そのお礼として5斗の米を出したので、世間では彼らのことを米賊(べいぞく)と呼んだ。

張陵が亡くなると、息子の張衡が跡を継ぎ、同じように道術を行った。そして張衡が亡くなると、息子の張魯が跡を継いだ。

張魯は、益州牧(えきしゅうぼく)の劉焉(りゅうえん)から督義司馬(とくぎしば)に任ぜられ、別部司馬(べつぶしば)の張脩(ちょうしゅう)とともに軍勢をひきい、漢中太守(かんちゅうたいしゅ)の蘇固(そこ)を攻めた。

こうして蘇固を殺害した後、さらに張魯は張脩を襲撃して殺害し、その配下の軍勢を奪い取った。

194年、劉焉が死去すると、息子の劉璋(りゅうしょう)が跡を継ぐ。

205年、劉璋は、張魯が命令に従わないという理由で、その母や家族を皆殺しにした。

劉璋と仇敵(きゅうてき)になった張魯は、そのまま漢中を占領し、妖術を用いて民衆を導き、自ら師君(しくん)と号す。

初め道術を学びに来た者は、みな鬼卒(きそつ)と呼ばれ、本格的に道術を授けられて信心するようになった者は、祭酒(さいしゅ)と呼ばれた。

それぞれの祭酒は一団の信者をひきいており、配下の数が多い者を、特に治頭大祭酒(ちとうだいさいしゅ)と呼んだ。

「誠実であれ」とか「人を騙(だま)すな」などと教え、病にかかった者には自己の過失を告白させた。こういったことは、ほぼ黄巾(こうきん。張角〈ちょうかく〉の「太平道〈たいへいどう〉」を指す)と同じだった。

祭酒たちは義舎を建てたが、それは今(陳寿〈ちんじゅ〉のいう当時)の亭伝(駅舎)と似たものだった。義舎には米や肉が備えてあり、旅人は無料で食べることができた。

だが、もし必要な量を超えて食べてしまった場合は、たちまち妖術が病をもたらすと考えられていた。

何らかの規則に違反した者は3度まで許され、そのあと初めて処罰を受けた。長吏(ちょうり。県令〈けんれい〉や県長〈けんちょう〉)を置かずにすべてを祭酒が治めたため、庶民も蛮民も喜んだという。

このようにして30年ほどの間、「五斗米道」は巴(は)と漢(かん)の一帯を押さえて覇をとなえた。

後漢(ごかん)末期、朝廷には討伐する力がなかったため、張魯のもとへ使者を遣って、彼を鎮民中郎将(ちんみんちゅうろうしょう)・漢寧太守(かんねいたいしゅ)に任じ、貢ぎ物を献ずる義務だけを課すという恩寵を与えた。

このころ地中から玉印を掘り出して献上した民がいたので、張魯は群臣に漢寧王(かんねいおう)を称するよう勧められた。しかし張魯は、功曹(こうそう)の閻圃(えんほ)の意見に従って思いとどまる。

211年、韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)が乱を起こすと、関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)に住む数万戸の民が、子午谷(しごこく)を通って張魯のもとへ逃げ込んできた。

215年3月、曹操が、散関(さんかん)から武都(ぶと)へ出て張魯討伐に向かい、7月には陽平関(ようへいかん)に到着。

張魯は漢中を挙げて降伏しようと考えたが、弟の張衛は承知せず、数万の軍勢をひきいて陽平関の守りを固めた。張衛らはよく戦ったものの、やがて曹操軍に撃破された。

張魯は陽平関が陥落したことを聞き、再び降伏しようとしたが、ここで閻圃が進言した。

「追い詰められた状況で降っても評価されないでしょう。いったん杜濩(とこ。賨邑侯〈そうゆうこう〉。巴の七豪族のひとり)か朴胡(ふこ。蛮王〈ばんおう〉。同じく巴の七豪族のひとり)を頼られ、抵抗する姿勢を見せた後で臣礼を執られたなら、必ずや高く評価されるでしょう」

張魯は進言に従って南山(なんざん)へ逃げ、そこから巴中(はちゅう)へ入った。

なお張魯は、本拠地の南鄭(なんてい)を捨てるにあたり、側近たちの意に反し、宝物や財貨が蓄えられた蔵を焼かず、それらに封印を施して立ち去った。

このあと南鄭に入城した曹操は大いに感心する。張魯は本来善良な心を持っているとして、使者を遣わし、慰撫(いぶ)および説得にあたらせた。

同年11月、張魯が家族を引き連れて出頭すると、曹操は出迎えて鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に任じ、賓客の礼をもって遇した。

また、張魯を閬中侯に封じて1万戸を授け、5人の息子や閻圃らもみな列侯(れっこう)に封じた。さらに、張魯の娘が曹操の息子の曹宇に嫁ぐことも決まった。

のち張魯が死去(時期は不明)すると、原侯と諡(おくりな)され、息子の張富が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

張魯の母は姓名ともにわからないので、別に項目を作りませんでしたが……。『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉焉伝)によると、張魯の母は、巫術(ふじゅつ)を使ううえに若々しい姿をしていて、劉焉の家と頻繁な行き来があったそうです。

そのため劉焉は、張魯を督義司馬に任じて漢中へ派遣し、長安(ちょうあん)へ通ずる谷に架けられた橋を断ち切らせ、朝廷の使者を殺害させました。

そうしておいてから劉焉は上書し、「米賊(『五斗米道』の信者)が道路を遮断したため、都への連絡手段がなくなりました」と述べ、益州の豪族の粛清を進めて地盤を固めたのでした。

張魯自身も不思議キャラ的なところがありますけど、その母もまた小説などに向きそうな感じがしますね。何か若さを保つ秘密があったのでしょうか?

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