徐詳(じょしょう)

【姓名】 徐詳(じょしょう) 【あざな】 子明(しめい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)烏程県(うていけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・胡綜伝(こそうでん)』に付された「徐詳伝」あり。

孫権(そんけん)の信任を受け、よく使者の役目も果たす

父母ともに不詳。

209年、孫権が「車騎将軍(しゃきしょうぐん)」となり本拠地を京(けい。京城〈けいじょう〉)に定めると、徐詳は是儀(しぎ)や胡綜とともに軍事や国政の機密事項を処理した。

217年、曹操(そうそう)が大軍をひきい濡須(じゅしゅ)まで侵出し、攻撃を受けた孫権は敗れてしまう。

このとき都尉(とい)の徐詳は孫権の命を受け、曹操に講和を申し入れる使者を務める。ほどなく曹操から答礼の使者が遣わされ、両者で誓約を交わし婚姻関係を結ぶことになった。

221年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が大軍をひきい白帝(はくてい)まで出てきた際、胡綜が孫権の命を受けて徴兵にあたり、新たに6千人の兵士を確保する。

そこで孫権は「解煩(かいはん)」と名付けた左右両部からなる部隊を新設し、徐詳を「左部督(さぶとく)」に、胡綜を「右部督(ゆうぶとく)」に、それぞれ起用した。

この年、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から「呉王」に封ぜられると、徐詳は是儀や胡綜らとともに「亭侯(ていこう)」に封ぜられた。

229年、孫権が武昌(ぶしょう)から建業(けんぎょう)へ遷都すると、徐詳は胡綜ともども「侍中(じちゅう)」に任ぜられ、徐詳が「左領軍(さりょうぐん)」を、胡綜が「右領軍(ゆうりょうぐん)」を、それぞれ兼ねた。また、ふたりとも「郷侯(きょうこう)」に爵位が進んだ。

その後の徐詳については記事がないものの、彼は胡綜より先に死去したという。

『三国志』(呉書・胡綜伝)によると、胡綜は赤烏(せきう)6(243)年に死去している。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(呉書・諸葛恪伝〈しょかつかくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によれば、孫権が「呉王」になると、漢(かん)の制度にはなかった「節度(せつど)」の官を新設し、この役目を侍中・偏将軍(へんしょうぐん)の徐詳に任せ、軍の兵糧を統括させたそうです。

徐詳に関する記事は、先に採り上げた是儀胡綜に比べると断片的なものしかありませんでしたが、3人とも孫権から厚く信頼されていたことがうかがえました。なお、本伝末にある陳寿(ちんじゅ)の評では、たびたび徐詳が使者の役を務めていたことにも触れています。

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