士燮(ししょう) ※あざなは威彦(いげん)

【姓名】 士燮(ししょう) 【あざな】 威彦(いげん)

【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん)

【生没】 137~226年(90歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝』あり。

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卓越した判断力で90年の天寿を全う

父は士賜(しし)だが、母は不詳。士壱(しいつ)・士䵋(しい)・士武(しぶ)は弟。士祗(しし)・士徽(しき)・士幹(しかん)・士頌(ししょう)・士廞(しきん)という5人の息子(兄弟順は不明)がいた。

士燮の先祖は、もともと魯国(ろこく)の汶陽県(ぶんようけん)の人だったが、王莽(おうもう)のために天下が混乱に陥ると、交州(こうしゅう)へ避難した。

それから6代目にあたるのが父の士賜で、桓帝(かんてい。在位146~167年)の時代に日南太守(にちなんたいしゅ)を務めた。

士燮は若いころ都で学問に励み、劉陶(りゅうとう。185年没)に師事して『左氏春秋(さししゅんじゅう)』を修めた。孝廉(こうれん)に推挙されて尚書郎(しょうしょろう)に任ぜられたが、仕事上のトラブルに巻き込まれて免職となる。

父の喪が明けた後、今度は茂才(もさい)に推挙されて南郡(なんぐん)の巫県令(ふけんれい)に任ぜられ、のち交阯太守(こうしたいしゅ。交趾太守)に昇進した。

交州刺史(こうしゅうしし)の朱符(しゅふ)が異民族の反乱で殺害されると、州郡は乱れて収拾がつかなくなった。

そこで士燮は上表し、士壱を合浦太守(ごうほたいしゅ)に、士䵋を九真太守(きゅうしんたいしゅ)に、士武を南海太守(なんかいたいしゅ)に、それぞれ任ずるよう願い出て認められた。

士燮は温厚なうえ、謙虚な態度で人に接した。中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)の士人の中には、彼のもとへ身を寄せて、難を避ける者が数百人もいた。

また、士燮は特に『春秋』を好み、その注釈を著す。袁徽(えんき)が荀彧(じゅんいく)に送った手紙の中で、士燮の優れた見識を激賞するなど、学者からも高く評価されていた。

士氏兄弟はそれぞれ太守を務め、州の実力者となった。しかも、治めた州郡が都から遠く離れていたため、並ぶ者のない権勢を振るい、独尊の地位を保つことができた。

朱符の死後、朝廷は張津(ちょうしん)を交州刺史として赴任させたが、のち部将の区景(おうけい)に殺害されてしまう。

このとき荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)が独自に頼恭(らいきょう)を送り込み、張津の後任に充てようとした。

ちょうど蒼梧太守の史璜(しこう)も死去したので、劉表は呉巨(ごきょ)を後任に充てようとし、頼恭とともに赴任させた。

朝廷は劉表の動きを知ると、士燮に璽書(じしょ)を下して綏南中郎将(すいなんちゅうろうしょう)に任じ、南海・蒼梧・鬱林(うつりん)・合浦・交趾(交阯)・九真・日南の7郡を監督するよう命じた。交阯太守の任もこれまで通りとされた。

その後、士燮は張旻(ちょうびん)を遣わして、都へ貢納品を届けさせた。当時は天下が混乱の極みにあり、各地の道路も通じなくなっていたが、士燮は貢納の義務を果たし続けた。

このため特に重ねて詔(みことのり)が下され、安遠将軍(あんえんしょうぐん)に任ぜられたうえ、龍度亭侯(りょうたくていこう)に封ぜられた。

のち呉巨は頼恭と仲たがいし、軍勢を動かして追い払いにかかり、頼恭は零陵(れいりょう)へ逃げ帰った。

210年、孫権(そんけん)が歩騭(ほしつ)を交州刺史として赴任させた。

歩騭が着任すると、士燮は弟たちとともに支配下に入る。一方で、呉巨は表面的にしか服従せず、翌211年に歩騭に斬られた。士燮は孫権から左将軍(さしょうぐん)に任ぜられた。

建安(けんあん。196~220年)の末年、士燮が、息子の士廞を人質として孫権のもとへ遣ったところ、孫権は士燮を武昌太守(ぶしょうたいしゅ)に任じ、士燮や士壱の息子で南方に留まっている者たちを、みな中郎将に任じた。

士燮は益州(えきしゅう)の豪族の雍闓(ようかい)らに働きかけ、郡民をまとめて孫権に味方させた。

こうしたことからますます孫権は士燮を評価し、衛将軍(えいしょうぐん)に昇進させ、龍編侯(りょうへんこう)に爵位を進めた。さらに士壱も偏将軍(へんしょうぐん)に任じ、都郷侯(ときょうこう)に封じた。

士燮は孫権のもとへ使者を遣わすとき、いつも珍宝や珍品を大量に貢納した。士壱も孫権に数百頭の馬を貢納することがあった。孫権は、こうした品々を受け取るたびに手紙を送り、手厚く下賜品を授けて彼らの気持ちに応えた。

226年、士燮は郡にあること40余年にして死去。このとき90歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く葛洪(かつこう)の『神仙伝(しんせんでん)』によると、「士燮が病死してすでに3日経っていたとき、仙人の董奉(とうほう)がやってきて丸薬をひとつ与え、『士燮に飲ませるように』と言った」ということです。

「そして、丸薬を水とともに口に含ませ、頭を持って揺り動かし、飲み込ませたところ、しばらくして士燮が目を開け、手を動かし、顔色も徐々に良くなった。半日後には立ったり座ったりできるようになり、4日後には再び話せるようになった」のだと。

この話はいったい何なの? とも思いましたが、一応拾っておきます。

ちなみにこの注は、士氏兄弟がそれぞれ太守を務め、権勢を振るった様子が描かれている部分に付けられており、士燮が90歳で亡くなったという記事より少し前に出てきます。

士燮が交阯太守(交趾太守)だったとき重い病にかかり、董奉の丸薬で復活を遂げたということなのでしょうか?

後漢(ごかん)時代の末期から三国時代にかけては、いくつも半独立勢力がありました。ある者は討伐されたり、ある者は帰順したりするわけですが、この士燮の立ち回りは見事でした。まぁ、こうでなくては、90年の長寿は保てないか。

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