【姓名】 劉基(りゅうき) 【あざな】 敬輿(けいよ)
【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん)
【生没】 182?~230年?(49歳?)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・劉繇伝(りゅうようでん)』に付された「劉基伝」あり。
劉繇の息子、呉(ご)の孫権(そんけん)に厚遇される
父は劉繇だが、母は不詳。劉鑠(りゅうしゃく)と劉尚(りゅうしょう)は弟。孫霸(そんは)に嫁いだ娘がいた。
195年、劉基は劉繇が死去したため跡を継いだ。このときまだ14歳だったが、父の喪に服して礼に外れるところがなく、もとの部下が届けてくれた食糧なども受け取らなかった。
劉基は容姿が端麗で、孫権に仕えて寵遇された。
219年に孫権が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)になると、劉基は東曹掾(とうそうえん)として招かれ、輔義校尉(ほぎこうい)・建忠中郎将(けんちゅうちゅうろうしょう)に任ぜられた。
さらに221年に、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられると、劉基は大農(だいのう)に昇進した。
この呉王就任を祝う宴席で、騎都尉(きとい)の虞翻(ぐはん)が孫権の逆鱗(げきりん)に触れた。
祝宴が終わりに近づいたころ孫権が立ち上がり、皆に酒をついで回る。
ところが虞翻は床に倒れ伏し、泥酔したふりをして杯を受けない。そのうえ孫権が前を通り過ぎると、身を起こしてきちんと座り直した。
これを見た孫権が激怒し、剣を執って斬りつけようとしたのだった。
座にあった者はみな動転したが、劉基だけは落ち着いて立ち上がり、孫権を抱き止めて諫めた。
孫権は諫めを聞き入れると、側近らに対して、「今後、酒が入ったうえで私が処刑を命じても、決して執行してはならぬ」と言った。
こうした劉基の執り成しのおかげで、虞翻は処刑を免れることができた。
また、とても暑い日に、孫権が船上で酒宴を催したことがあった。皆で船上の楼(たかどの)にいたとき、不意の雷雨に見舞われた。
孫権は蓋(かさ。貴人用の大きな傘)を差しかけさせたが、同じく劉基にも差しかけるよう命じた。ほかの者は蓋に入ることができなかったが、彼はこのように礼遇されていたのだった。
のち劉基は郎中令(ろうちゅうれい)に転じ、229年に孫権が帝位に即くと、改めて光禄勲(こうろくくん)に任ぜられ、分平尚書事(ぶんへいしょうしょじ)となった。
その後(230年?)、劉基は49歳で死去した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書(ごしょ)』には、以下のようにありました。
「劉基は多くの苦難に見舞われ、苦労をなめ尽くしたが、ひっそりと世に処して道を楽しみ、こうした境遇を悲しむことはなかった」
「父の死後は弟たちとともに暮らし、いつも遅くに寝て早くに起き、妻妾(さいしょう)らが彼の顔を見ることはまれだった。そのため弟たちは劉基を畏敬し、父に対するように仕えた」
「劉基はみだりに交遊関係を広めなかったので、その門をつまらない客が訪れることはなかった」
父の劉繇は乱世向きの人物とは言えませんでしたが、その跡継ぎたる劉基は立派な態度で孫権に仕え、当然の礼遇を受けたのですね。
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