【姓名】 游楚(ゆうそ) 【あざな】 仲允(ちゅういん)
【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
蜀軍(しょくぐん)を退けて隴西(ろうせい)を保持
父は游殷(ゆういん)だが、母は不詳。
游楚は蒲阪県令(ほはんけんれい)を務めていたが、211年に曹操(そうそう)が関中(かんちゅう)を平定した際、張既(ちょうき)の推挙により漢興太守(かんこうたいしゅ)に起用され、その後は隴西太守に転じた。
游楚は気性が激しかったものの、各地で太守として恩徳のある統治を行い、刑罰による殺害(死刑)を好まなかった。
228年、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)が隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)に侵攻し、官民を騒がせる。
天水太守(てんすいたいしゅ)と南安太守(なんあんたいしゅ)は郡を見捨てて東へ逃れたが、游楚だけは隴西に留まった。このとき游楚は官民に呼びかけ、自分の首を持って蜀へ降るよう勧めたが、みな涙ながらに運命をともにする決意を述べた。
諸葛亮に呼応した南安の者たちが、ほどなく蜀軍を連れて隴西へ攻め寄せる。
游楚は長史(ちょうし)の馬顒(ばぎょう)を出撃させ蜀軍を退けたが、それから10余日すると魏(ぎ)の諸軍も隴山に到着した。(街亭〈がいてい〉における大敗もあって)諸葛亮は引き揚げた。
後に天水と南安の住民は、諸葛亮に呼応したかどでひどい懲罰を受け、両郡の太守も重刑に処される。一方で游楚は列侯(れっこう)に封ぜられ、彼の配下の長史や掾属(えんぞく)にも褒美や官位が授けられた。
また、曹叡(そうえい)は特に游楚の参内を許す。游楚は小柄ながら声が大きく、官吏となってから朝見の機会もなかったため、殿中における儀礼を知らなかった。
そこで曹叡は侍中(じちゅう)に介添えを命じ、「隴西太守、進みなさい」と呼ばわらせる。
しかし、游楚は「唯(はい)」と応えるべきところ、大声で「諾(よし)」と応えた。それでも曹叡は彼を見て微笑し、ねぎらい励ました。
游楚は謁見後に上奏し、宿衛として留まりたいと願い出る。そのため駙馬都尉(ふばとい)に任ぜられた。
游楚は学問をせず、遊びや音楽を好んだ。歌手を雇い、琵琶(びわ)・箏(こと)・簫(ふえ)の奏手をそろえ、外出した際には必ずお供をさせたという。
そして、行く先々で樗蒲(ちょぼ。ばくちの一種)や投壺(とうこ。壺〈つぼ〉の口を狙い矢を投げ入れる遊び)を楽しんだ。
数年後、游楚は再び地方へ出て北地太守(ほくちたいしゅ)となり、70余歳で死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張既伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く摯虞(しぐ)の『三輔決録注(さんぽけつろくちゅう)』および魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。
隴西にいたころの活躍より、曹叡に謁見したときの話のほうが印象に残りました。殿中における決まりごとは、さぞ多かったのでしょうね……。
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