羊祜(ようこ) ※あざなは叔子(しゅくし)

【姓名】 羊祜(ようこ) 【あざな】 叔子(しゅくし)

【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)南城県(なんじょうけん)

【生没】 221~278年(58歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。

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敵同士の間に生まれた不思議な友誼(ゆうぎ)

父母ともに不詳。司馬師(しばし)に嫁いだ姉(晋〈しん〉の景献皇后〈けいけんこうごう〉)がいた。

268年、羊祜は中軍将軍(ちゅうぐんしょうぐん)から尚書左僕射(しょうしょさぼくや)に転ずる。

翌269年、都督荊州諸軍事(ととくけいしゅうしょぐんじ)に就任。

272年、呉(ご)の西陵督(せいりょうとく)の歩闡(ほせん)が晋に使者を遣わし、降伏を申し入れる。呉は陸抗(りくこう)らを西陵へ向かわせ、歩闡の討伐にあたらせた。

一方、このとき羊祜は車騎将軍(しゃきしょうぐん)として諸軍をひきい、江陵(こうりょう)へ進出する。

さらに晋の荊州刺史(けいしゅうしし)の楊肇(ようちょう)が西陵に向かい、巴東監軍(はとうかんぐん)の徐胤(じょいん)が水軍をもって建平(けんぺい)を攻めた。

しかし、楊肇は数か月を経ても西陵の呉軍を撃破できず、夜陰に紛れて退却し始める。それでも陸抗は西陵城にある歩闡の動きを警戒し、大々的に晋軍を追撃することができなかった。

そこで陸抗は兵士を勢ぞろいさせ、太鼓だけ打ち鳴らすと、追撃に出るよう見せかける。これを見た楊肇配下の晋軍は大混乱を起こし、鎧(よろい)を脱ぎ捨てて四散した。

陸抗の繰り出した軽装の兵士による追撃を受け、楊肇は大敗を喫した。このため羊祜らもみな軍勢をまとめて引き返すことになる。

晋軍の撤退後、陸抗は西陵を陥して歩闡らを誅殺した。

それ以後、羊祜と陸抗は国境地帯で対峙(たいじ)し続けることになり、この間に不思議な友誼が生まれた。

274年、陸抗が死去する。

276年、羊祜は平南将軍(へいなんしょうぐん)から征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)に昇進した。

翌277年、鉅平侯(きょへいこう)から南城侯に移封される。

翌278年、58歳で死去した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・陸遜伝〈りくそんでん〉)に付された「陸抗伝」によるもの。

また、(正史の)『晋書(しんじょ)』(武帝紀〈ぶていぎ〉)も一部参考にしましたが、肝心の『晋書』(羊祜伝)の記事は吟味できていません。現状では下手に触らないほうがよさそうなので、いずれ加筆できればと思います。

なお、「陸抗伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『晋陽秋(しんようしゅう)』では、敵同士だった羊祜と陸抗との友誼を採り上げていました。

このふたりの交わりは、古代の子産(しさん。春秋〈しゅんじゅう〉時代の鄭〈てい〉の人)と季札(きさつ。春秋時代の呉の人)のものと同様だったといい――。

あるとき陸抗から酒が贈られてくると、羊祜は少しも(毒が入っているという)心配せずに飲み、羊祜から薬が贈られてくると、病気の陸抗も感謝して飲んだのだとか。

当時の人々は、敵同士でありながら互いを欺くことがなかった華元(かげん。春秋時代の宋〈そう〉の人)と司馬子反(しばしはん。春秋時代の楚〈そ〉の人)とが、今の世に現れたのだと評したとも。

とはいえ、敵対する国の将軍の間に生まれた友誼には、当然ながら批判もありました。もちろん公私のけじめをつけたうえでの交わりだったのでしょうが、簡単に理解できないものを感じますね。

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