呂虔(りょけん) ※あざなは子恪(しかく)

【姓名】 呂虔(りょけん) 【あざな】 子恪(しかく)

【原籍】 任城郡(じんじょうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第045話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂虔伝』あり。

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兗州(えんしゅう)・青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)で賊の討伐に活躍

父母ともに不詳。息子の呂翻(りょはん)は跡継ぎ。

曹操(そうそう)が兗州にいたとき(191~195年ごろ)、呂虔は胆略の持ち主と評価され、従事(じゅうじ)に取り立てられる。そして家兵を引き連れ、湖陸(こりく。地名)を守ることになった。

198年、襄賁校尉(じょうほんこうい)の杜松(としょう)の配下にあった住民の炅母(けいぼ)らが反乱を起こし、昌豨(しょうき)と手を結ぶと、呂虔は曹操の命を受け、杜松に代わって襄賁校尉となる。

着任後、呂虔は炅母ら首領と、この悪事に加担した数十人を招いて酒食を与える一方、壮士を選んでそばに伏せておいた。

皆が酔ったところで壮士に炅母らを殴殺させ、残った手下をいたわったので賊は服従した。

この一件があり、呂虔は泰山太守(たいざんたいしゅ)を兼ねることになる。泰山郡は山と海に接しており、世の動乱のため多くの民が逃げ隠れているとのうわさがあった。

また、袁紹(えんしょう)の任命した中郎将(ちゅうろうしょう)の郭祖(かくそ)や公孫犢(こうそんとく)ら数十人が、山に立て籠もって乱暴を働き、民を苦しめていた。

だが、呂虔が家兵をひきいて到着すると、恩愛と信義を示したので郭祖らは降伏する。山中に逃げ隠れていた者たちも出てきて、それぞれの土地や仕事に落ち着いた。

呂虔はそうした者の中から屈強な男を選んで兵士を補充。泰山郡は精兵を抱えるようになり、その強さは州郡の筆頭とうたわれた。

済南(せいなん)および楽安(らくあん)の黄巾賊(こうきんぞく)である徐和(じょか)や司馬俱(しばく)らが、至るところの高官を殺害したうえ城邑(まち)を攻めた。

呂虔は兵をひきいて夏侯淵(かこうえん)と合流し、討伐にあたる。数十回の戦いを経て、数千人を斬ったり捕らえたりした。

次いで呂虔は、青州諸郡の兵を指揮して東萊(とうらい)の賊の李条(りじょう)らを討伐し、ここでも功を立てた。

曹操は、呂虔の功をたたえて茂才(もさい)に推挙し、騎都尉(きとい)の官位を加える。この際、郡政を担当することはもとの通りとした。

220年、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、呂虔は裨将軍(ひしょうぐん)の称号を加えられ、益寿亭侯(えきじゅていこう)に封ぜられる。

後に徐州刺史(じょしゅうしし)に昇進し、威虜将軍(いりょしょうぐん)の称号を加えられた。

さらに、利城(りじょう)で反乱を起こした賊を討伐して功を立てた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、呂虔は万年亭侯(ばんねんていこう)に移封され、200戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は600戸となった。

その後、呂虔が死去(時期は不明)すると、息子の呂翻が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、呂虔は泰山に十数年いたが、たいそう威厳と恩恵があったといいます。

また、呂虔は徐州刺史になると、琅邪(ろうや)の王祥(おうしょう)を招聘(しょうへい)して別駕(べつが)に起用し、彼に一切の民政を任せたという。世間では、よく賢者に任せたことに感心したのだとも。

王祥は厚い孝心と優れた品行を兼ね備えた人物で、後に魏の三公に昇り、子孫は晋代(しんだい)でも栄えました。そういう人物を招き、思い切って民政を任せてしまうあたり、呂虔は単なる武人ではありませんでした。

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