許褚(きょちょ) ※あざなは仲康(ちゅうこう)

【姓名】 許褚(きょちょ) 【あざな】 仲康(ちゅうこう)

【原籍】 譙国(しょうこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第044話で初登場。
【演義】 第012回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・許褚伝』あり。

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曹操(そうそう)の信愛に応えて奮闘、諡号(しごう)は壮侯(そうこう)

父母ともに不詳。許定(きょてい)は兄。息子の許儀(きょぎ)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。

許褚は身長が8尺(せき)余り、腰回りが10囲と大きく、勇ましい容貌と毅然とした態度で知られ、武勇や力量は人並み外れていた。

後漢末(ごかんまつ)、許褚は若者とその一族ら数千家を集め、ともに砦(とりで)を築いて賊の侵入を防ぐ。

汝南(じょなん)の葛陂(かつひ)の賊1万余人が攻め寄せた際、許褚は手勢が少ないために対抗できず、力の限り戦い疲れきった。

そのうち武器や矢弾も尽きると、砦にいる男女に湯飲みか升ほどの大きさの石を集めさせる。許褚の投げる石に当たった者はみな打ち砕かれ、賊は思い切って進んでこなかった。

やがて食糧が足りなくなったため、許褚は賊と和睦を図り、牛と食糧を交換する。賊は牛を受け取ったものの、この牛がすぐに逃げ帰ってきてしまう。

そこで許褚は砦の前に出て、片手で牛の尾を引きながら、賊のほうまで100歩ほど進む。この様子を見た賊は仰天し、そのまま牛を受け取らずに逃げ散った。

淮(わい)・汝・陳(ちん)・梁(りょう)の辺りでは話を伝え聞き、みな許褚を恐れ憚(はばか)ったという。

その後、曹操が淮や汝を攻め落とすと、許褚は仲間を引き連れて帰服した。曹操は許褚と会い、その勇壮さに感心して言う。

「お前は私の樊噲(はんかい)だ」

樊噲は前漢(ぜんかん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)に仕えた侍衛で、挙兵当初から付き従っていた。

すぐさま許褚を都尉(とい)に任じて警護役を命じ、彼の配下にいた俠客(きょうかく)をみな虎士(こし。近衛兵)とした。

198年、許褚は曹操の張繡(ちょうしゅう)討伐で先陣を務め、5ケタに上る(もちろん実数ではないと思われる)首を斬り校尉(こうい)に昇進。

翌199年、曹操に付き従い、翌200年にかけて袁紹(えんしょう)との官渡(かんと)の戦いでも活躍。

このころ、曹操に随行していた兵士の徐他(じょた)らが謀反を企てる。しかし、許褚が曹操の左右に侍していたのでなかなか実行に移せなかった。

徐他らは許褚が休暇で外出する機会を狙い、懐中に剣を忍ばせ曹操の幕舎へ入る。

ところが、許褚は自分の軍営まで来たところで胸騒ぎを覚え、引き返して侍衛に就いていた。

驚いた徐他らが顔色を変えると、許褚は企みに気づき、即座にみな打ち殺す。いよいよ曹操は信愛の度を深め、許褚を出入りに同行させて左右から離さなかった。

204年、許褚は曹操に付き従って鄴(ぎょう)を包囲し、力戦して功を立て関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。

211年、曹操に付き従い、潼関(とうかん)で韓遂(かんすい)や馬超(ばちょう)と対峙(たいじ)する。

このとき曹操は黄河(こうが)の北岸へ渡ろうとしたが、先に兵を渡し、許褚と虎士100余人だけで南岸に留まっていた。

そこへ馬超が歩騎1万余人をひきいて攻め寄せ、雨のように矢を射込ませる。

許褚は曹操を助けつつ船に乗せ、この船によじ登ってくる味方の虎士を斬り捨てながら、左手に鞍(くら)を掲げて矢を防いだ。

ほどなく船頭が流れ矢を受けて死んでしまうと、許褚は右手で船を漕(こ)ぎ、やっとのことで渡りきる。この日は許褚がいなければ、曹操の身もまったく危うかったという。

後に曹操は単身で馬に乗り、韓遂や馬超と会見する。側近は誰も一緒に行かず、ただ許褚ひとりが付いていた。

馬超は、この機会に密かに突きかかるつもりだったが、かねてから許褚の武勇を聞いていたので、お供の騎馬武者が彼かと疑う。

そこで、こう尋ねてみる。

「虎侯(ここう)という者がいるそうだが、どこにいるのか?」

曹操が振り返って指をさすと、許褚は目を怒らせ馬超をにらむ。すると馬超はあえて行動を起こそうとせず、それぞれ引き揚げることになった。

数日後、曹操は馬超らを大破したが、許褚も首級を挙げ、武衛中郎将(ぶえいちゅうろうしょう)に昇進。「武衛」という称号はこれから始まったという。

軍中では、許褚の力が虎のようであり、また彼が痴(ぼうっとしている様子)であることから「虎痴(こち)」と号した。許褚は慎み深く、法を順守し、質朴で重々しく、口数が少なかった。

あるとき曹仁(そうじん)が荊州(けいしゅう)から戻り、まだ曹操が出御(しゅつぎょ)しないうち、宮殿の外で許褚に出会った。

曹仁は部屋に呼び入れ、座って語り合おうとしたが、許褚はこう言って宮殿へ引き返す。

「王(曹操)はもうすぐお出ましになりましょう」

あまりに素っ気ない態度を取られたため、曹仁は心中で許褚を恨んだ。

ある人が許褚をとがめて言った。

「征南将軍(せいなんしょうぐん。曹仁)は王族の重臣です。その方がへりくだって呼びかけられたのに、どうしてあなたはお誘いを断ったのですか?」

許褚は答えた。

「あの方は王族の重臣ながら、あくまで外におられる諸侯です」

「私は朝廷の一内臣にすぎませんから、大勢がいる場で話せば十分です。どうして部屋に入っての個人的な付き合いが必要でしょうか」

この話を聞いた曹操はますます許褚を信愛し、中堅将軍(ちゅうけんしょうぐん)に昇進させた。

220年1月、曹操が崩御(ほうぎょ)すると、許褚は号泣して血を吐く。

同年10月、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、許褚は万歳亭侯(ばんざいていこう)に爵位が進み、武衛将軍に昇進した。中軍の宿衛にあたる近衛兵を指揮し、側近としてたいそう親しまれたという。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと牟郷侯(ぼうきょうこう)に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は700戸となり、息子のひとりが関内侯に封ぜられた。

その後、許褚が死去(時期は不明)すると壮侯と諡(おくりな)され、息子の許儀が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には以下のようにありました。

以前、許褚にひきいられていて虎士となった者たちは、曹操に付き従うと各地の討伐へ赴いた。曹操は全員を壮士と評価し、同時に将校に任ずる。

後に功を上げて将軍となり、列侯(れっこう)に封ぜられた者が数十人、都尉や校尉となった者が100余人もおり、みな剣術家だったという。

許褚自身も豪傑でしたが、彼に付いていた俠客もすご腕ぞろいだったのですね。

許褚の没年はイマイチはっきりしませんが、同じく本伝によると、太和(たいわ)年間(227~233年)、曹叡は許褚の忠孝を思い出し、詔(みことのり)を下して褒めたたえ、彼の子孫ふたりに関内侯の爵位を授けたということです。

なので曹叡の即位後、許褚は数年のうちに亡くなったのではないかと思います。

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